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人民公社

中華人民共和国の社会主義建設の柱とされた集団農場。1958年の大躍進運動で具体化され、中国全土に建設されたが、次第に生産性が低下し、1982年に解体された。

 中国共産党毛沢東の主導権の下、中華人民共和国1958年5月に始まる「大躍進」運動の中で建設が推進された、集団化された農業組織。第1次五カ年計画での農業集団化で始まった合作社を発展させたもので、第2次五カ年計画の中心的な課題として人民公社の建設が掲げられた。
 「公社」とは「コミューン」の訳語であり、1871年のフランス・パリに出現した世界で最初の労働者政府としてのパリ=コミューンに始まる理念を継承し、農業の手段生産組織であるだけでなく、自給的な工業生産も行い、行政・軍事・教育においても基本の単位となる地域行政組織でもあった。毛沢東は人民公社を「社会主義を完成し共産主義社会に移行するための最適の組織」とし、それを定着させる大号令を発した。人民公社は行政機関の役割も果たすとされたので、それまでの地域行政単位であった郷も廃止された。

農村集団化の歩み

 中華人民共和国成立後の中国の農村では、既に1950年6月の土地改革法によって封建的な地主制度が一掃され「耕すものが土地を所有する」原則が実現しており、さらにその集団化は1953年6月に始まった第1次五カ年計画の中で合作社として試みられていた。合作社は前進と停滞をくり返しながら、初級合作社(自然村落を単位に労働力を集団化したが分配は提供した土地や家畜数に応じて行うという半社会主義的組織)の段階から1955~56年には高級合作社(規模の大きい行政村を単位とし集団所有、集団労働、統一経営、統一分配を目指した社会主義的組織)へと飛躍的に拡大され、それが1958年からの「人民公社」化の前提となった。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 p.37>

人民公社の形成

人民食堂

人民公社の人民食堂

 最初の人民公社は1958年7月に河南省で設立され、土地と農具を共有として統一的集中的に使用し、社員は公社全体の収穫から供給される公共食堂で、ただで食事が出来るとされた。8月、華南の人民公社を視察してそれを激賞し、全国に宣伝、8月17日から北戴河で開催された中国共産党政治局拡大会議で農村の人民公社設立を推進することが決議され、以後またたく間に全国に拡大し10月末には全国が公社社化した。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.225>
(引用)人民公社とは、一郷一社の規模を基本とし、従来の権力機構(郷人民政府、郷人民代表大会)と合作社を一体化し(政社合一)、その中では農業・工業・商業・文化・教育・軍事を互いに結びつけ、集団生産・集団生活を主とした自力更生・自給自足の地域空間を目指したもので、中国における共産主義の基層単位と見なされた。人民公社化は、58年8月末には全農家の30.4%が参加し、12月末には99.1%、計2万6578社に達している。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 p.49>

人民公社の問題

 人民公社は鉄鋼の増産とともに毛沢東主導の1950年代末から70年代にかけて、中国での社会主義国家建設の柱として重視された。当時まだ国交回復前で正確な情報の無かった日本でも、壮大な社会主義の実験であり、将来の共産社会の実現につながる希望とともに語られることが多かった。しかし、人民公社化が進むにつれ、現実には農民の不満が強く、毛沢東及び中国共産党の想定したような成果はあがらず、その運営は次第に困難になってきていた。人民公社の抱える問題には次のような説明がある。
(引用)急速な人民公社化は、多くの場合物質的、制度的条件が整わないままで実施したため、看板だけが人民公社で、実際には従来の合作社のままといったものが多かった。さらに人民公社は「一平二調」すなわち「働いても働かなくとも同じ」といった悪平等主義と、上からの命令・調達主義による農民の生産意欲の大幅低下といった現象が広がった。その上、「自由に食べられる」人民食堂など「共産風」による食料や資材の大浪費を招いた。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 p.50-51>
 人民公社は1960年代から農地請負制などが導入されて変質していたが、文化大革命の時期の、特に後半になると社会主義イデオロギーが復活し、「工業は大慶に、農業は大寨に学べ」といわれるようになった。油田を控えた大慶は工業における成功例であり、大寨は勤勉なリーダーによって営まれる集団農村の成功例とされ、モデルケースとして盛んに宣伝されたが、多くの人民公社では農民の生産意欲は向上せず、強制的な集団化は次第に形骸化していった。


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人民公社の解体

文化大革命の時期から人民公社の行き詰まりが明らかとなり、文革後の鄧小平路線のもとで改革開放路線がとられることによって、1982年に解体された。

 中国の社会主義集団農場として1958年以来存続した人民公社は、鄧小平政権の経済近代化政策の推進により、1982年に解体された。集団農業の転換は、密かに進んでいた。75年以来四川省の党第一書記趙紫陽は、経営管理の下放(権限譲渡)、家庭副業の奨励などによって77年に大豊作を勝ち取り、78年には自留地を大幅に拡大し、生産管理の作業組請負制(包産到組)を導入、従来の人民公社の共同経営・共同労働方式を緩める政策を採った。これは後に「四川の経験」と言われるようになる。安徽省では党第一書記万里のもとで農家生産請負制が広まり、黒字に転化させた。80年には鄧小平が「農家生産請負制」を明確に支持する態度を示し、一気に全国に広がった。
 そして1982年11月末から12月にかけて第5期全人代第5回大会で新憲法が年末に討議・採択され、そこにおいて正式に「人民公社の解体」が決定された。人民公社の解体、郷人民代表大会・郷人民政府の樹立と農家生産請負制の普及は急ピッチで進み、84年末にその移行は完了した。請負制の広がりとともに、農民は生産意欲を大いに高め、84年には史上初めて食糧生産が4億トンを突破するなど飛躍的な増産を勝ち取った。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>
郷鎮企業 人民公社の時代に地方農村で生まれた軽工業・手工業の生産組織は、人民公社解体後は私企業として残っていた。それらを郷鎮(ごうちん、またはきょうちん)企業といい、その分野は各種の養殖業、交通運送業、建設業など多岐に及び、1980年代の改革開放政策での地域産業の基盤となっていった。

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天児慧
『中華人民共和国史新版』
2013 岩波新書