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マリア=ルース号事件

1872年、横浜に入港したペルー船から中国人(苦力)が逃亡。日本側はペルー船の出港を禁止し中国人奴隷を解放した。開国間もない日本が直面した、最初の国際裁判の事例となった事件。同時に日本の芸妓の人身売買も問題とされ、同年に禁止された。

 1872年(明治5年)7月、横浜港に入港したペルー船マリア=ルース号から一人の中国人が脱走して日本側に保護され、虐待されていると訴えた。マリア=ルース号はポルトガル領のマカオから中国人を苦力(クーリー)として雇い、ペルーに向かう途中、修理のため横浜に入港したものであり、中国人は実質的には奴隷として扱われ、虐待されていることが判明した。苦力とは金銭的な契約で新大陸に移民としてわたる契約を結んだものであるが、事実上は人身売買であり、彼らは奴隷の待遇を受けていた。
 日本政府はマリア=ルース号の出港を禁止し、船長を訴追、神奈川県権令大江卓は中国人に対する虐待を有罪とした。マリア=ルース号船長と移民業者は中国人に契約履行を求め提訴したが、大江卓は奴隷輸出契約は公序良俗に反するとして請求を却下した。
 ペルーは日本の措置を国際法に違反するとして、真っ向から対立した。両国は交渉の結果、1873年にロシア皇帝アレクサンドル2世を裁判官とする仲裁裁判に付託することで合意し、75年にアレクサンドル2世は日本側の主張を認める裁定を下し、決着した。
 なおこの時、ペルーが日本でも娼妓制度があり人身売買が行われていると反撃したのを受け、明治政府は72年10月太政官布告を出し、娼妓を解放した。
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書籍案内

牧英正
『人身売買』
1971 岩波新書

田中優子
『遊郭と日本人』
2021 講談社現代新書