アレクサンドル2世
ロシア皇帝(在位1855~81年)。クリミア戦争の敗北を受け、農奴解放令など改革を実施してロシアの近代化を図るとともに、露土戦争などで勢力拡張を図った。1881年、ナロードニキ運動の流れを汲むテロリストによって殺害された。
ロマノフ朝のロシアで、クリミア戦争の最中の1855年3月2日に死去したニコライ1世にかわって即位したロシア帝国ロマノフ朝の皇帝(ツァーリ)。クリミア戦争の敗北からロシア帝国を再起させるために、農奴解放令の公布などの上からの近代化を図り、国力の回復を図った。
その上で積極的な南下政策を再開し、1877年に露土戦争(ロシア=トルコ戦争)を起こし、オスマン帝国に勝利してバルカン半島から地中海方面への進出を実現させかけたが、ベルリン会議でのビスマルクの巧妙な外交によってその動きは阻止された。近代化とは裏腹な専制政治は、めざめ始めたロシア民衆から離反し始め、1881年、テロリストによってアレクサンドル2世が暗殺された。その後、ロシア帝国のツァーリズム専制政治は矛盾を強めていく。
農奴解放令 1861年、農奴解放令を公布した。農奴制は、自由な商業や産業の発達の足かせとなり、ロシア社会の後進性の原因であったので、その廃止は急務であった。これは農奴の人格的解放と土地所有を認めたものであったが、有償でしかも与えられる土地は個人ではなく農村共同体(ミール)であったので不十分であった。しかし、ともかくも制度としての農奴制が廃止されたことによって、ロシアは資本主義化の第一歩を踏み出すこととなった。
ゼムストヴォの創設 1864年、地方自治機関であるゼムストヴォを設置した。これは県と郡ごとに設けられた地方議会を兼ねる機関であり、財産資格による選挙によって参事会が選出され、地域の道路整備、医療、教育などに当たった。その基礎は伝統的な農村共同体である村と郷であった。このようにまず地方自治には一定の前進を見たが、中央での議会開設には至らなかった。
改革の意義と影響 その他、「大改革」には治安判事と陪審員裁判を取り入れた司法制度の改革、士官養成や管区編成の変更などの軍事改革、初等教育・中等教育の充実などの教育改革などがおこなわれた。いずれも、ロシアにとっての課題であった近代化を、皇帝が上から実現を図る改革であり、それによって1860年代にはロシアの産業革命が始まった。しかしその上からの改革は、ツァーリズムの圧政に対する反発を呼び覚まし、1860~70年代にはナロードニキ運動が盛んになった。また、1863年にはロシア支配下でのポーランドの反乱が勃発した。それらの運動は官憲、軍隊によって厳しく弾圧されることとなり、その結果として1881年には、アレクサンドル2世暗殺がおこることとなる。
露土戦争 農奴解放後の資本主義化の進行による国力を回復させると、再びバルカン、東地中海方面への南下政策をとるようになった。1877年には露土戦争でオスマン帝国を破り、サン=ステファノ条約でバルカン半島のスラヴ系国家を樹立を通じて進出をはかろうとしたが、イギリス・オーストリアの反発を受け、ドイツのビスマルクの調停によりベルリン会議が開催された結果、そのバルカン進出は阻止された。その後も三帝同盟、独露再保障条約などの巧妙な外交によってその枠組みの中に組み込まれてしまった。
また、財政難からアラスカをアメリカ合衆国に売却したのもこの時代である。一方、中央アジアでの南下政策に転じ、トルキスタンへの侵攻を展開し、1876年までにほぼ征服してタシケントにトルキスタン省を設置して綿花栽培の強要するなど植民地支配を開始し、イラン・アフガニスタンを緩衝地帯としたイギリスとの対立が厳しくなった。
なお、アレクサンドル2世は1872年に日本で起こったマリア=ルース号事件に関する日本とペルー間の国際裁判の仲裁判事をつとめ、日本側の主張を認める判決を出している。1875年5月には千島・樺太交換条約を締結し、千島を日本領とする代わりに樺太全土の領有に成功した。
その上で積極的な南下政策を再開し、1877年に露土戦争(ロシア=トルコ戦争)を起こし、オスマン帝国に勝利してバルカン半島から地中海方面への進出を実現させかけたが、ベルリン会議でのビスマルクの巧妙な外交によってその動きは阻止された。近代化とは裏腹な専制政治は、めざめ始めたロシア民衆から離反し始め、1881年、テロリストによってアレクサンドル2世が暗殺された。その後、ロシア帝国のツァーリズム専制政治は矛盾を強めていく。
アレクサンドル2世の「大改革」
ロシアが、クリミア戦争で敗北したことは、ロシア陸軍の不敗―あのナポレオン戦争に勝利した―の神話をうち砕き、帆船を主体とした海軍は連合軍の蒸気船海軍に惨敗、ロシアの後進性が明らかとなった。アレクサンドル2世が取り組まなければならない課題は、まず遅れたロシアの社会の近代化であった。そこでアレクサンドル2世は一連の「大改革」といわれる改革に取り組むこととなった。農奴解放令 1861年、農奴解放令を公布した。農奴制は、自由な商業や産業の発達の足かせとなり、ロシア社会の後進性の原因であったので、その廃止は急務であった。これは農奴の人格的解放と土地所有を認めたものであったが、有償でしかも与えられる土地は個人ではなく農村共同体(ミール)であったので不十分であった。しかし、ともかくも制度としての農奴制が廃止されたことによって、ロシアは資本主義化の第一歩を踏み出すこととなった。
ゼムストヴォの創設 1864年、地方自治機関であるゼムストヴォを設置した。これは県と郡ごとに設けられた地方議会を兼ねる機関であり、財産資格による選挙によって参事会が選出され、地域の道路整備、医療、教育などに当たった。その基礎は伝統的な農村共同体である村と郷であった。このようにまず地方自治には一定の前進を見たが、中央での議会開設には至らなかった。
改革の意義と影響 その他、「大改革」には治安判事と陪審員裁判を取り入れた司法制度の改革、士官養成や管区編成の変更などの軍事改革、初等教育・中等教育の充実などの教育改革などがおこなわれた。いずれも、ロシアにとっての課題であった近代化を、皇帝が上から実現を図る改革であり、それによって1860年代にはロシアの産業革命が始まった。しかしその上からの改革は、ツァーリズムの圧政に対する反発を呼び覚まし、1860~70年代にはナロードニキ運動が盛んになった。また、1863年にはロシア支配下でのポーランドの反乱が勃発した。それらの運動は官憲、軍隊によって厳しく弾圧されることとなり、その結果として1881年には、アレクサンドル2世暗殺がおこることとなる。
アレクサンドル2世の外政
対外的には、自由主義・民主主義・民族主義に対しては厳しく弾圧する姿勢を続け、依然としてヨーロッパの憲兵と言われている。1873年には、普仏戦争の勝利で成立したドイツ帝国のビスマルクの働きかけに応じて、自由主義や共和政思想を抑えるための三帝同盟を結成した。露土戦争 農奴解放後の資本主義化の進行による国力を回復させると、再びバルカン、東地中海方面への南下政策をとるようになった。1877年には露土戦争でオスマン帝国を破り、サン=ステファノ条約でバルカン半島のスラヴ系国家を樹立を通じて進出をはかろうとしたが、イギリス・オーストリアの反発を受け、ドイツのビスマルクの調停によりベルリン会議が開催された結果、そのバルカン進出は阻止された。その後も三帝同盟、独露再保障条約などの巧妙な外交によってその枠組みの中に組み込まれてしまった。
また、財政難からアラスカをアメリカ合衆国に売却したのもこの時代である。一方、中央アジアでの南下政策に転じ、トルキスタンへの侵攻を展開し、1876年までにほぼ征服してタシケントにトルキスタン省を設置して綿花栽培の強要するなど植民地支配を開始し、イラン・アフガニスタンを緩衝地帯としたイギリスとの対立が厳しくなった。
なお、アレクサンドル2世は1872年に日本で起こったマリア=ルース号事件に関する日本とペルー間の国際裁判の仲裁判事をつとめ、日本側の主張を認める判決を出している。1875年5月には千島・樺太交換条約を締結し、千島を日本領とする代わりに樺太全土の領有に成功した。
アレクサンドル2世暗殺
1881年、ロシア皇帝アレクサンドル2世がテロリストに暗殺された。暗殺したのは、ナロードニキの流れをくむ「人民の意志」を名乗るテロリストたちであった。アレクサンドル2世の後を継いだアレクサンドル3世は、ツァーリズム強化をめざし、反体制派の徹底した弾圧に乗り出した。また、暗殺をユダヤ人の犯行であると決めつけ、反ユダヤ主義の感情からユダヤ人に対する激しい迫害(ポグロム)を始めた。このころからロシアを逃れてアメリカなどに移住するユダヤ人が急増した。
Episode 27歳の女性テロリスト
テロリストの中心となったのはソフィア=ペロフスカヤという看護婦で、27歳という若さだった。彼女は貴族の出だったが、ヴ=ナロードの運動に共鳴して家を出、農民を助けるために薬学を学び看護婦となった。労働者に対する政府の激しい迫害を体験し、社会変革のためには専制君主を暴力で倒すしかないと決意し、テロルを実行することを決意したのだった。1881年3月1日(旧暦)、ソフィアたちはかねて準備したアジトで宮殿に帰る途中のアレクサンドル2世を爆弾で襲撃し、その命を奪った。ツァー殺害は世界中を驚かせ、政府は犯人逮捕に狂奔し、10日にソフィアも逮捕され、4月15日に仲間とともに処刑された。<荒畑寒村『ロシア革命運動の曙』1960 岩波新書 p.74~>