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ペルー(1) 独立と苦悩

かつてのインカ帝国のあった南米大陸アンデス山中の国。1821年、サン=マルティンの指導でスペインからの独立を達成したが、1824年、シモン=ボリバルの率いた軍がペルー副王軍に勝って独立を確定した。

ペルー GoogleMap

ペルーはアンデス山脈中心部のかつてのインカ帝国が繁栄した地域で、スペイン植民地時代はペルー副王の統治を受けていた。1780年、最初で最大のインディオ反乱と言われる「トゥパク=アマルの反乱」が起こった。インカ皇帝の直系子孫を名乗るコンドルカンキがスペインの搾取に対して立ち上がったもので、一時はクスコを包囲しインディオの国の樹立を目指したが、副王軍に敗れ100人ほどが処刑されて鎮圧された。ペルー副王はその後、本国スペインがナポレオンによって征服されたことによって南米各地に独立運動が起きるとその弾圧の拠点となった。

サン=マルティンによる独立

 ラテンアメリカの独立の動きが各地で起きる中、ラプラタといわれたアルゼンチンもペルー副王の圧迫を受けていたので、完全独立を目指したサン=マルティンは大遠征を計画、まずアンデスを越えたチリに入り、その独立を実現させ、さらに北上してペルー副王領を攻撃、リマに入城して1821年7月28日、ペルー独立を宣言した。

シモン=ボリバルによる独立確保

 サン=マルティンは独立ペルーで護国卿となり、全権を与えられたが、ラプラタから彼に従ってきた将軍たちがペルー人を抑圧する面があり、次第に反発するようになった。そのような亀裂に乗じて、クスコなど山岳部に撤退していたペルー副王軍(スペイン系王党派)が反撃し、ペルーの独立が脅かされるようになった。戦況が不利になったサン=マルティンは、ベネズエラを解放し、北方でペルー副王軍と戦っていたシモン=ボリバルと、1822年にクアヤキルで会見して共闘を申し出たが、独立ペルーの政体を君主制としようと考えていたサン=マルティンに対し、シモン=ボリバルは共和制を構想していたので意見が合わず、会見は決裂、戦いの見透しを失ったサン=マルティンは護国卿を辞任してアルゼンチンに帰った。
 その後、シモン=ボリバルは解放軍を率いた部下のスクレ将軍にペルー内に南下させ、1824年にはアヤクチョの戦いでペルー副王軍に大勝し、ペルーの独立はようやく確固たるものとなった。

独立国ペルーの苦悩

 ペルーの独立はサン=マルティンによって勝ち取られ、シモン=ボリバルによって確実なものとされたのであり、いずれもペルー人でなく、外部の力によって得られた独立であった。また権力は人口の1割に過ぎない白人のクリオーリョがにぎり、インディオ、メスティソ、ムラート、黒人らは長く無権利のままに置かれた。さらに政治はカウディーリョと呼ばれる地方ボスが牛耳っていた。
ペルー・ボリビア連合 またペルーとボリビアはかつてのインカ帝国の領土であるという共通性があるため、相手を併合して大国になろうという野心を抱き、たびたび合同する動きが起こった。1836年にはボリビアの大統領サンタ=クルスがペルーのリマ政府のカウディーリョ間の内紛に乗じて併合を狙い、ペルー・ボリビア連合を宣言したが、南に位置するチリとアルゼンチンが反発して介入し、1839年にはペルーの反連合勢力を支援して連合政府軍と戦って破り、連合は崩壊した。
マリア=ルース号事件 それでも1840年代には、ペルー海岸部の海鳥の糞からできる硝石(グアノ)が肥料として用いられるようになると、トウモロコシや綿花と共にペルーの重要な輸出品となり、経済は発展し始めた。1854年にはペルーで黒人奴隷制が廃止されプランテーション労働力が不足すると、中国からの苦力(クーリー)に依存するようになり、1872年にはマカオから苦力を運ぶ船が日本の横浜港で差し止められるというマリア=ルース号事件が起こっている。

太平洋戦争

 1879年、硝石の産地をめぐって、チリが領有権を主張、ペルーとボリビアに宣戦布告をし、「太平洋戦争」が始まった。チリ海軍に制海権を奪われてペルー=ボリビア連合軍は敗北し、ペルーは硝石の産地をチリに割譲しなければならなかった。

ペルーへの日本人移民

 マリア=ルース号事件で初めて交渉した日本とペルーは、翌1873年に通称友好仮条約を締結して関係を深め、1899年に第1回の日本人移民790人がペルーに移住した。第二次世界大戦中にはペルーは連合国に加わったので、日本人に対する感情が悪化し、大規模な排日運動が起きている。戦後は関係が改善され、日本人移民社会も経済の発展にともなって増加し、1990年には日系二世のアルベルト=フジモリが大統領に就任した。

ペルー(2) 軍政と民政移行。フジモリ政権。

1968~75年、ベラスコ将軍らによる軍政が行われた。民政移行後は経済破綻と左派ゲリラの台頭で混乱し、1990年に日系のフジモリ大統領が登場。強権的手法で改革を進めたが、選挙の不正などで批判を受け2000年に退陣した。

 現在のペルーは、人口2.9千万人。首都はリマ。東側を太平洋に面し、漁業も盛んだが、国土の大部分はアンデス山脈の高地であり、銀などの地下資源に恵まれている。南米南部共同市場では準加盟国に留まっているが、2004年に新たな「南米国家共同体」(UNASUR)をペルーで発足させており、南米大陸での「同一通貨、同一パスポート、一つの議会」をめざしている。
ペルー国旗 国旗 ペルーの国旗は、1820年、独立運動を指導したサンマルチンが、リマ南方のピスコ湾に上陸した際、赤い翼に白い胸の鳥の一群が飛び立ち、独立解放の吉兆となったという故事に由来している。現在は愛国心を著すとされている。中央の国章は民用旗では省略されるが、何が描かれているかというと、左上の動物はピクーニャというペルーの代表的な動物、右上は国花であるキナの木、そして下の得体の知れないものは、金貨が袋からあふれている図で、国の豊かさを表すという。

ペルー革命と軍政

 1968年、クーデターによって権力を握ったベラスコ将軍は軍事革命政権と銘打ち、一見、社会主義的な改革を開始した。これをペルー革命と言っているが、通常の民衆が立ち上がって権力構造を転換させたという意味ではない。その政策の中身は、アメリカ系石油企業の国有化、農地改革、労働者の経営参加、などであったが、本質的にはポピュリズムであり、非民主的な軍事政権であった。

民政移行

 1980年に民政に移行したが、債務危機を脱却できず、1985年にアプラ(アメリカ人民革命同盟、APRA)というポピュリズム政党のガルシアが大統領となり、債務返済額を輸出総額の10分の1に削減すると一方的に宣言し、IMFから貸付不適格国に指定され、超インフレに陥った。また、80年代にはゲリラ組織「ソンデロ=ルミノソ」(輝ける道、の意味)が猛烈なテロ活動を行い、政府の鎮圧行動と合わせて10年間に1万8千人が犠牲になった。

フジモリ大統領

 こうしてペルー政治が行き詰まるなかで行われた1990年の大統領選挙で当選したのが、政治家ではなく理系の大学教授であった日系のアルベルト=フジモリだった。既成の政治に不信を強めていた国民が消去法で選んだのがフジモリだった。フジモリ大統領は緊縮財政を採用して債務返済を優先することとゲリラを鎮圧して政治を安定させ、国際信用を取り戻すことをめざしたが、それには大統領権限を絶対化する必要があるとして軍の支持を得て議会を解散させた。これは民政移行の潮流に反するとして国際社会からは強く批判されたが、国民はフジモリを支持し、95年には再選された。
左翼ゲリラによる日本大使館占拠事件 1996年12月にゲリラ組織トゥパク=アマル革命運動(MRTA)によるリマの日本大使館占拠事件が発生、4ヶ月以上にわたる選挙が続いた後、翌97年4月22日、フジモリ大統領は強行突破を図って人質を救出することに成功し、防弾チョッキのまま記者会見に現れて国民的な人気を博した。トゥパク=アマルとはインカ帝国の最後の皇帝の名で、その子孫を名乗る人物によって1780年にトゥパク=アマルの反乱が起こっている。
 その後フジモリは2000年には三選されたが、長期政権化するなかで政権が腐敗し、側近の汚職事件が明るみに出て大統領を解任された。
 なおフジモリは2009年にリマの特別法廷で在任中の反対派に対する殺人や虐待によって禁固25年の判決を受け、翌年の二審で実刑が確定した。

中道左派政権の成立

 2000年のフジモリ退任後、何人かの大統領を経て、ラテンアメリカ諸国で左派政権が一斉に登場した2006年、ペルーではガルシア大統領が復帰した。ガルシアはフジモリの前の大統領でアプラの指導者であるが、フジモリの独裁的手法を厳しく批判し、中道左派を標榜している。
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