移民
生活の基盤を言語や文化の異なる地域に集団的に移動させること。世界史上、大規模な移民が繰り返されており、世界史を動かす要因となっている。
一般に近代以降の主権国家間の国境をこえた、一定の集団的な移住を移民という。英語では、「移民する」は migrate であるが、「外国に移民する」は emigrate 、「外国から移民する」は immigrate といって区別している。またその形態には、自然発生的な移民か、国家的・計画的な移民かという違いがあり、世界史の中でいくつかの重要な事例を見ることが出来る。また前近代における民族移動は移民の概念には当てはまらない。またかつては個人的な結婚、仕事による移住は移民とはされなかったが、近年は国連の定義では「出生あるいは市民権のある国の外に12カ月以上いる人」とされており、移住目的を問わないようになっている。グローバリズムの進行、冷戦崩壊後の21世紀に顕著になっている「難民」とのかかわりなど状況は大きく変わりつつあると言えよう。移民を考える際には、移民が起こった地域の事情と、それを受け入れた地域の状況、それぞれの変化などに留意しよう。
近代の移民 移民が本格的に行われるようになるのは、19世紀の世界の資本主義化からである。ヨーロッパの資本主義の先進地域では、人口の増加と貧富の差の拡大という爆発的な社会変動が起き、地域内では農村から都市への人口移動があったが、さらにアメリカやオセアニアの新天地、アジアやアフリカの植民地をめざして移民の動きが活発になった。特にアメリカ合衆国への移民は1845年のジャガイモ飢饉から多くなったアイルランド移民を始め、ヨーロッパおよびアジアからの移民が急増した。他に、カナダやオーストラリア、アルゼンチンなどのラテンアメリカの国々は始めから移民主体の国家として始まった。イタリアの作家デ・アーミティスの『クオーレ』(1886)にある「母を訪ねて三千里」の話は、イタリアからアルゼンチンへの移民の話である。
帝国主義時代の移民問題 帝国主義時代になると、イギリスの植民地支配下にあった東南アジアのマレー半島のゴム農園などへのインド人移民(印僑とも言われた)が増加した。また、アメリカ合衆国への移民では、東欧や南欧からのいわゆる新移民が急増し、さらに黒人奴隷に代わる労働力として中国からの苦力(インド人の移民、いわゆる印僑も含む)が増加して、その発展を支えた。しかし激しい経済競争の中で、アメリカは国内の労働市場を守るため、移民制限に向かうようになった。1882年の中国人労働者移民排斥法に続いて、20世紀初頭1906年頃からには日本人移民排斥運動が始まり、1924年の移民法で新移民に対する制限と日本人移民の禁止が行われたのである。
ブラジルは1888年に奴隷制を廃止したため、コーヒー農園での労働力として移民を受け入れるようになり、1908年から日本人移民が始まった。1924年のアメリカの移民法施行によって日本人移民の多くはブラジルを目ざすことになり、以後の10年間で急増した。
オーストラリアは白豪主義をとって、アジアからの移民を排除した。また、国家間の対立が厳しくなるにともない、軍事的に領土を拡張して国策的に移民を送る(日本の満州国移民、ドイツの東欧地域への移民など)形態が出てきた。国内の社会不安や矛盾を、移民という形で解決しようというのが帝国主義的な発想としてまかり通った時代だった。
第二次大戦後の移民 第二次世界大戦後は、戦前までのような公認された大規模な移民は無くなり、経済のグローバル化にともなって、出稼ぎのような短期的な移動が主流になった。とくにアメリカへのラテンアメリカ地域からの移動(実体は不法な移民)、石油ブームのアラブ産油国へのアジア・アフリカ諸国からの労働者の移動、バブル期の日本へのアジアからの出稼ぎ、ヨーロッパ連合への近隣諸国(特にトルコ)からの移住など時期や地域によってさまざま人口移動が起こっている。また、移民とは異なるが、イスラエル国家が建設されて世界各地からのユダヤ人が移住したために、パレスチナのアラブ人はパレスチナ難民となり、大きな対立を生み出した。またインドシナ戦争からカンボジア内戦、あるいはアフリカの民族紛争などで大規模な難民としての人口移動という悲劇も見過ごすことは出来ない。
→ 移民(アメリカ) 移民(帝国主義時代)
世界史上の移民
近代以前の移民 世界史上で国家間の移民が活発になる現象は、16世紀以降の「近代世界システム」の形成の中で、モノとヒトの移動が激しくなる時代から見られる。植民地への本国人の移住と、その反対の植民地人が労働力として他の地域に移住させられるようになったことである。アフリカの黒人奴隷は強制的な「拉致」であるので、自分の意志による移民とは区別されなければならないが、この時代のヒトの移動の一形態である。また中国人は同じころ、人口増加と耕地不足を主な理由として、禁令にもかかわらず、多数が海外移住していわゆる華僑(南洋華僑)となっていった。近代の移民 移民が本格的に行われるようになるのは、19世紀の世界の資本主義化からである。ヨーロッパの資本主義の先進地域では、人口の増加と貧富の差の拡大という爆発的な社会変動が起き、地域内では農村から都市への人口移動があったが、さらにアメリカやオセアニアの新天地、アジアやアフリカの植民地をめざして移民の動きが活発になった。特にアメリカ合衆国への移民は1845年のジャガイモ飢饉から多くなったアイルランド移民を始め、ヨーロッパおよびアジアからの移民が急増した。他に、カナダやオーストラリア、アルゼンチンなどのラテンアメリカの国々は始めから移民主体の国家として始まった。イタリアの作家デ・アーミティスの『クオーレ』(1886)にある「母を訪ねて三千里」の話は、イタリアからアルゼンチンへの移民の話である。
帝国主義時代の移民問題 帝国主義時代になると、イギリスの植民地支配下にあった東南アジアのマレー半島のゴム農園などへのインド人移民(印僑とも言われた)が増加した。また、アメリカ合衆国への移民では、東欧や南欧からのいわゆる新移民が急増し、さらに黒人奴隷に代わる労働力として中国からの苦力(インド人の移民、いわゆる印僑も含む)が増加して、その発展を支えた。しかし激しい経済競争の中で、アメリカは国内の労働市場を守るため、移民制限に向かうようになった。1882年の中国人労働者移民排斥法に続いて、20世紀初頭1906年頃からには日本人移民排斥運動が始まり、1924年の移民法で新移民に対する制限と日本人移民の禁止が行われたのである。
ブラジルは1888年に奴隷制を廃止したため、コーヒー農園での労働力として移民を受け入れるようになり、1908年から日本人移民が始まった。1924年のアメリカの移民法施行によって日本人移民の多くはブラジルを目ざすことになり、以後の10年間で急増した。
オーストラリアは白豪主義をとって、アジアからの移民を排除した。また、国家間の対立が厳しくなるにともない、軍事的に領土を拡張して国策的に移民を送る(日本の満州国移民、ドイツの東欧地域への移民など)形態が出てきた。国内の社会不安や矛盾を、移民という形で解決しようというのが帝国主義的な発想としてまかり通った時代だった。
第二次大戦後の移民 第二次世界大戦後は、戦前までのような公認された大規模な移民は無くなり、経済のグローバル化にともなって、出稼ぎのような短期的な移動が主流になった。とくにアメリカへのラテンアメリカ地域からの移動(実体は不法な移民)、石油ブームのアラブ産油国へのアジア・アフリカ諸国からの労働者の移動、バブル期の日本へのアジアからの出稼ぎ、ヨーロッパ連合への近隣諸国(特にトルコ)からの移住など時期や地域によってさまざま人口移動が起こっている。また、移民とは異なるが、イスラエル国家が建設されて世界各地からのユダヤ人が移住したために、パレスチナのアラブ人はパレスチナ難民となり、大きな対立を生み出した。またインドシナ戦争からカンボジア内戦、あるいはアフリカの民族紛争などで大規模な難民としての人口移動という悲劇も見過ごすことは出来ない。
→ 移民(アメリカ) 移民(帝国主義時代)