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移民

生活の基盤を言語や文化の異なる地域に集団的に移動させること。世界史上、大規模な移民が繰り返されており、世界史を動かす要因となっている。特に資本主義の時代以降は、国境を越えた労働力の移動が行われるようになり、第二次世界大戦後の国際紛争ではやむなく故国を離れなければならなくなった難民が出現し、特に21世紀に入ってからのヨーロッパへのムスリム難民の急増、アメリカ合衆国へのラテンアメリカ地域からの流入の増加は、摩擦や対立とともに政治的対立の要因となっている。

 一般に近代以降の主権国家間の国境をこえた、一定の集団的な移住を移民という。英語では、「移民する」は migrate であるが、「外国に移民する」は emigrate 、「外国から移民する」は immigrate といって区別している。またその形態には、自然発生的な移民か、国家的・計画的な移民かという違いがあり、世界史の中でいくつかの重要な事例を見ることが出来る。また前近代における民族移動は移民の概念には当てはまらない。またかつては個人的な結婚、仕事による移住は移民とはされなかったが、近年は国連の定義では「出生あるいは市民権のある国の外に12カ月以上いる人」とされており、移住目的を問わないようになっている。グローバリズムの進行、冷戦崩壊後の21世紀に顕著になっている「難民」とのかかわりなど状況は大きく変わりつつあると言えよう。移民を考える際には、移民が起こった地域の事情と、それを受け入れた地域の状況、それぞれの変化などに留意しよう。

世界史上の移民

近代以前の移民 世界史上で国家間の移民が活発になる現象は、16世紀以降の「近代世界システム」の形成の中で、モノとヒトの移動が激しくなる時代から見られる。植民地への本国人の移住と、その反対の植民地人が労働力として他の地域に移住させられるようになったことである。アフリカの黒人奴隷は同零貿易における商業的な強制的「拉致」であるので、自分の意志による移民とは区別されなければならないが、この時代のヒトの移動の一形態である。また中国人は同じころ、人口増加と耕地不足を主な理由として、禁令にもかかわらず、多数が海外移住していわゆる華僑(南洋華僑)となっていった。
近代の移民 移民が本格的に行われるようになるのは、19世紀の世界の資本主義化からである。ヨーロッパの資本主義の先進地域では、人口の増加と貧富の差の拡大という爆発的な社会変動が起き、地域内では農村から都市への人口移動があったが、さらにアメリカやオセアニアの新天地、アジアやアフリカの植民地をめざして移民の動きが活発になった。特にアメリカ合衆国への移民は1845年のジャガイモ飢饉から多くなったアイルランド移民を始め、ヨーロッパおよびアジアからの移民が急増した。他に、カナダオーストラリアアルゼンチンなどのラテンアメリカの国々は始めから移民主体の国家として始まった。イタリアの作家デ・アーミティスの『クオーレ』(1886)にある「母を訪ねて三千里」の話は、イタリアからアルゼンチンへの移民の話である。
帝国主義時代の移民問題 帝国主義時代になると、イギリスの植民地支配下にあった東南アジアのマレー半島のゴム農園などへのインド人移民印僑とも言われた)が増加した。また、アメリカ合衆国への移民では、東欧や南欧からのいわゆる新移民が急増し、さらに黒人奴隷に代わる労働力として中国からの苦力(インド人の移民、いわゆる印僑も含む)が増加して、その発展を支えた。しかし激しい経済競争の中で、アメリカは国内の労働市場を守るため、移民制限に向かうようになった。1882年の中国人労働者移民排斥法に続いて、20世紀初頭1906年頃からには日本人移民排斥運動が始まり、1924年の移民法新移民に対する制限と日本人移民の禁止が行われたのである。
 ブラジルは1888年に奴隷制を廃止したため、コーヒー農園での労働力として移民を受け入れるようになり、1908年から日本人移民が始まった。1924年のアメリカの移民法施行によって日本人移民の多くはブラジルを目ざすことになり、以後の10年間で急増した。
 オーストラリアは白豪主義をとって、アジアからの移民を排除した。また、国家間の対立が厳しくなるにともない、軍事的に領土を拡張して国策的に移民を送る(日本の満州国移民、ドイツの東欧地域への移民など)形態が出てきた。国内の社会不安や矛盾を、移民という形で解決しようというのが帝国主義的な発想としてまかり通った時代だった。
第二次大戦後の移民 第二次世界大戦後は、戦前までのような公認された大規模な移民は無くなり、経済のグローバル化にともなって、出稼ぎのような短期的な移動が主流になった。とくにアメリカへのラテンアメリカ地域からの移動(実体は不法な移民)、石油ブームのアラブ産油国へのアジア・アフリカ諸国からの労働者の移動、バブル期の日本へのアジアからの出稼ぎ、ヨーロッパ連合への近隣諸国(特にトルコ)からの移住など時期や地域によってさまざま人口移動が起こっている。また、移民とは異なるが、イスラエル国家が建設されて世界各地からのユダヤ人が移住したために、パレスチナのアラブ人はパレスチナ難民となり、大きな対立を生み出した。またインドシナ戦争からカンボジア内戦、あるいはアフリカの民族紛争などで大規模な難民としての人口移動という悲劇も見過ごすことは出来ない。
 → 移民(アメリカ)  移民(帝国主義時代) 

現代のヨーロッパ難民危機

 21世紀の第一四半期(25年まで)が終わろうとしている現在、アメリカとヨーロッパで移民・難民問題がそれぞれの国内政治情勢に大きな争点となっている。アメリカ合衆国では、共和党トランプ大統領が激しい移民排斥を公約に掲げ、1期目でメキシコとの国境を建設、2期目でさらにその勢いを強めている。ヨーロッパにおいても歩調を合わせたように、各国で移民排斥を唱える右派が台頭している。特にドイツ、フランスで顕著であるが、ハンガリーやオーストリアにも見られ、またイギリスのEU離脱の背景にも移民問題があった。また、2015年頃からの中東情勢の悪化によって、ヨーロッパ各地に大量の難民が押し寄せ、「ヨーロッパ難民危機」は深刻化している。移民と難民は正確な線引きは難しく、各国政府はその対応に苦しみ、EU内部でも対応の違いが生じており、また移民・難民の受け入れをめぐって国内の対立が顕著になっている。ここでは、最近のヨーロッパにおけるイスラーム圏からヨーロッパへの移民・難民の状況と、そこから生じている問題を整理しておこう。
第二次世界大戦後の外国人労働者 戦後、イスラーム圏(中東だけでなく南アジア、アフリカも含む)から多くのムスリム(イスラーム教徒)がヨーロッパに渡った。彼らは戦後復興をめざすヨーロッパ諸国にとって必要な労働力として国境を越えた。その多くは戦前の植民地を統治していた宗主国に向かった。例えばイギリスに移住したのはパキスタン・バングラデシュ・インド(ヒンドゥー教徒以外にもムスリム多数いる)・アルリカのタンザニア・スーダン・エジプトなど、フランスではアルジェリア、チュニジア、モロッコ、セネガル、マリなどの出身者であった。イスラーム圏ではあるが植民地とはならなかったトルコ共和国(旧オスマン帝国からは1960年代からヨーロッパ各地に移民が労働力として移住したが、その行き先は西ドイツが最も多かった。戦後の1960年代までにヨーロッパに移住したムスリムは合法的な国家間の協定にもとずく移民であり、そのほとんどは単身のいわば「出稼ぎ」で、稼いだお金を本国に送金し、仕事がなくなれば帰国する一時的な移住者であった(このようなケースを日本では外国人労働者という範疇でとらえ、移民=定住者と区分する見解もある)。
転機となった1973年 石油危機(第1次)は戦後の世界経済が低成長時代に転換する契機となった。高度成長を続けていた西ヨーロッパ諸国はいずれも産油国ではなかったので大きな打撃を受け景気が後退し、それまで続いていた移民受け入れを停止した。しかし、すでにヨーロッパ人権規約が成立しており、合法的な滞在者であれば家族を呼び寄せることが認められていたので、各国は新たな労働者の受け入れは停止したが、すでに働いている人たちの家族は受け入れざるを得なかった。こうしてこのころからヨーロッパのムスリムは一時的な移住者ではなく、定住移民へと性格を変え、同時に「移民社会」を形成することになり、ヨーロッパはイスラーム社会を内包することとなった。家族生活を営むようになったムスリムは、周囲のキリスト教社会と異なるイスラーム教の信仰を自らのアイデンティティと強く意識するようになった。また定住移民は依然として安価な労働力であり、経済が悪化すればまず解雇される弱い存在であったので、結束して助けあうようになった。それはまた周囲から、ヨーロッパ社会に同化しようとしない存在として警戒され、差別される傾向を強め、次第に衝突がくり返されるようになった。
冷戦終結後の難民の増加 1989年の冷戦の終結とともに世界各地で民族紛争・地域紛争が多発するようになった結果、多くの難民がヨーロッパをめざすようになった。東ヨーロッパではユーゴスラヴィア内戦が多くの難民を発生させ、イラクのフセイン政権下で迫害されたクルド人はさらに続いた湾岸戦争で故郷を追われ、また政情不安になった北アフリカ諸国からはジブラルタルを超えてスペインをめざし、アルバニアからはイタリアの海岸を目指して多数の人びとが海を渡って押し寄せた。彼らは政治的迫害から身を守るための難民であるのか、貧困から逃れるという経済的理由で移住しようとする不法移民であるのか、その多くは判別することが極めて困難だった。
イスラーム脅威論の高まりと9・11の衝撃 冷戦終結後、多くのムスリムがヨーロッパに押し寄せたことは、ヨーロッパ社会に「イスラーム脅威論」を蔓延さえることとなった。特に2001年9・11同時多発テロ事件はヨーロッパ社会とムスリム移民の関係をかつてないほど悪化させた。それを「文明の衝突」と唱える声も強まった。特に政教分離(ライシテ)を憲法にも規定しているフランスでは、ムスリム女性が被り物を身につけて登校することが大問題とされ、2010年には「ブルカ禁止法」が制定された。その影響は周辺国にも広がり、ジハードなどのイスラームの教えを危険視したり、ヴェールの風習を女性差別と誤解するなどの風潮が広がった。<内藤正典『ヨーロッパとイスラーム』2004 岩波新書>
シリア内戦 2010年12月、チュニジアのジャスミン革命から始まったアラブの春といわれた民主化運動は、翌年、エジプト、リビア、シリアへと波及した。特に2011年3月18日シリア内戦が本格化し、アサド政権と反政府軍が激しく公選した。シリア内戦はクルド人の独立運動や、イスラーム主義を掲げるイスラム国が台頭するなど混迷が深刻化し、多くの難民が発生した。シリア内戦は「今世紀最大の人道危機」といわれた。
ヨーロッパ難民危機 2015年から16年にかけて急増したシリア難民は国連の推計では401万に達し、そのうち最も多い180万が西のトルコに逃れた。彼らはさらにエーゲ海の島に密航し、ギリシア本土からマケドニア、セルビアへと北上した。難民の流入を恐れたハンガリーが国境に壁を作ったため、オーストリアをへてドイツに向かった。同年9月4日、メルケル首相が人道的な見地から難民を受け入れると表明しすると、この難民ルートはさらに増大した。シリア難民がドイツを目指したのはメルケル政権の姿勢と、ドイツの経済力が高く、難民を労働力として引き受けてくれるという期待があったからであったが、ドイツ国内では難民受け入れを許容したメルケル政権への不満が高まり、移民・難民排除を主唱する右翼政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が急速に台頭した。ドイツ以外でも中東からのアラブ系ムスリムの難民の波が押し寄せており、このようなヨーロッパへの難民の殺到「ヨーロッパ難民危機」と言われた。<内藤正典『イスラームからヨーロッパをみる』2020 岩波新書>