印刷 | 通常画面に戻る |

シャーマン号事件

1866年、アメリカの武装商船シャーマン号が鎖国下の朝鮮に対し通商を要求、上陸を試み、民衆の反撃を受け焼き払われた。同年のフランス軍の江華島上陸と合わせて、朝鮮では丙寅洋擾という。

 1866年8月、アメリカの武装商船ゼネラル=シャーマン号※は朝鮮の大同江に侵入した。シャーマン号には冒険商人プレストンとイギリス聖公会宣教師トーマスが乗っており、中国の天津を出航して、鎖国中の朝鮮王朝に対して、通商とキリスト教の布教を認めさせようとしたのだった。大同江を遡って平壌に迫ったたシャーマン号は、途中で朝鮮軍人一人を捕らえて人質として交渉を要求した。それに対して平安道観察使の朴珪寿は要求を拒否、夜陰に乗じて小舟で近づいて捕虜を救出した。シャーマン号はさらに大同江を遡ったが途中で干潮となったため座礁し、乗組員は上陸して略奪を行い、8人の朝鮮人を殺害した。激昂した民衆は1866年9月2日、反撃に出、朴珪寿は全面攻撃を命じてシャーマン号を焼き払った。乗組員20人全員が死亡した。<金重明『物語朝鮮王朝の滅亡』2013 岩波新書 p.95->
※ゼネラル=シャーマン、つまりシャーマン将軍とは南北戦争で北軍を勝利に導いた有名な軍人。

大院君の排外策

 これは、朝鮮王朝の時の実権を握っていた大院君の徹底した攘夷政策に基づくものであった。この年には2月のキリスト教弾圧によってフランス人宣教師が殺害されたことへの報復としてフランス艦隊が江華島に来寇しており、大院君政権はいずれも強硬な排外策をとって撃退した。朝鮮ではこの年の外国艦隊との戦闘を丙寅洋擾といっている。

アメリカ、報復にも失敗

 アメリカは、朝鮮王朝に対してシャーマン号事件の謝罪と通商条約締結を要求して1871年に、特命全権大使ローを派遣、海軍少将ロジャースの指揮する軍艦5隻、兵1230名に護られて江華島に来航した。アメリカ艦隊は江華島海峡を北上させ、漢江に侵入して漢城にせまろうとしたのに対し、朝鮮軍は砲撃を加え阻止した。アメリカ兵は砲台占拠を目指して上陸して白兵戦となったが、アメリカ軍は砲台を占領できず、7月3日に撤退した。このアメリカ艦隊との戦闘は辛未洋擾という。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.34-38>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

趙景達
『近代朝鮮と日本』
2012 岩波新書

金重明
『物語朝鮮王朝の滅亡』
2013 岩波新書