南北戦争
1861~65年、アメリカ合衆国が南北に分かれて戦った戦争。主な争点は黒人奴隷制度の存続をめぐってであったが、産業構造の違い、連邦制の性格などをめぐる対立もあった。4年にわたる激戦の結果、北軍が勝利し、南部の分離は実現せず、アメリカは統一国家として存続し、19世紀後半に工業化を軸とした大国として成長する基盤が築かれた。
アメリカの南北対立
アメリカ合衆国は、独立以来、その領土を西部に広げるとともに、次第に北部と南部の基幹産業のありかたの違いからくる主張の対立が次第に明確になっていった。アメリカの南北対立は、次のように要約することができる。- 地域と人口 南部:11州 人口 白人550万人・黒人350万人の900万。北部(境界州含む):23州 人口2200万人。
- 産業 南部:奴隷制綿花プランテーションを中心とした農業地域。北部:商工業を中心に発展。
- 政治体制 南部:連邦政府の権限を制限し、州の自治権を拡大する反連邦派に近い。北部:連邦政府の権限を拡大し統一を強める連邦派にちかい。
- 貿易政策 南部:主産物の綿花の輸出を増やすため自由貿易を主張。北部:イギリス製工業製品と競争するため保護貿易を主張。
- 黒人奴隷制 南部:綿花プランテーションを維持するためには奴隷制は必要と主張。北部:奴隷制拡大に反対し、労働力・購買力として期待。
黒人奴隷制をめぐる対立
連邦議会においては、黒人奴隷制をめぐる対立が当初から激しかった。特に領土が西部に拡大して新しい州が成立したとき、自由州にするか奴隷制にするかで対立が深まった。1820年には妥協点としてミズーリ協定が成立、北緯36度30分以北には新たな奴隷州は作らないことが取り決められた。しかし、アメリカ=メキシコ戦争によって獲得されたカリフォルニアが自由州となると、南部は対抗して逃亡奴隷法を制定させ、黒人の解放運動を厳しく取り締まろうとした。そのころ『アンクル=トムの小屋』が発表されて、北部では奴隷制に批判が強まったが、南部を基盤とした民主党が運動して、1854年にカンザス・ネブラスカ法を成立させ、奴隷州か自由州かの選択を住民に任せると事とし、ミズーリ協定を廃棄に追いこんだ。このことに反発した北部には共和党が結成され、両者の対立は次第に緊迫していった。さらに最高裁のドレッド=スコット判決がミズーリ協定を憲法違反とする判決が出たことは奴隷制反対派の憤激を買い、ジョン=ブラウンの蜂起などが起こった。リンカンの当選と南部の分離
1860年11月の大統領選挙で奴隷制度拡大反対を掲げる共和党のリンカンが当選すると、南部諸州の反発が強まり、12月に連邦離脱を決定した。翌1861年、リンカンが大統領に就任、それに対抗する形で南部諸州はアメリカ連合国を成立させ、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。アメリカ連合国の首都は初めはアラバマ州モントゴメリーであったが、間もなくヴァージニア州のリッチモンドに遷された。リンカンは、南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となった。南部諸州は、綿花輸出先のイギリスと、ナポレオン3世のフランスの支援を期待していた。南北戦争 州境は現在のもの。番号は左の文を参照。
- 北部の連邦諸州(自由州) 1.メイン、2.ニューハンプシャー、3.ヴァーモント、4.マサチューセッツ、5.ロードアイランド、6.コネティカット、7.ニューヨーク、8.ニュージャージー、9.ペンシルヴェニア、10.オハイオ、11.ミシガン、12.インディアナ、13.イリノイ、14.ウィスコンシン、15.アイオワ、16.ミネソタ、17.カンサス、18.オレゴン、19.カリフォルニア
- 境界州 奴隷州であったが北部との結びつきが強く、中立策をとった、20.デラウェア、21.メリーランド、22.ケンタッキー、23.ミズーリ、24.ウェストヴァージニア(1861年にヴァージニアから分離、63年に州昇格)
- 南部のアメリカ連合国加盟(奴隷州) 25.ヴァージニア、26.ノースカロライナ、27.テネシー、28.アーカンソー、29.サウスカロライナ、30.ジョージア、31.フロリダ、32.アラバマ、33.ミシシッピー、34.ルイジアナ、35.テキサス
戦争の経過
1861年4月13日、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃して戦争が始まる。はじめは、騎馬の戦闘力に長ける南部人を組織し、リー将軍などの有能な指揮官がいたので南軍が軍事的に優勢であり、イギリス・フランスも南軍に肩入れし、北軍は押されていた。戦争は合衆国からの分離をめざす南部諸州と、連邦国家としての統一を維持しようという北部リンカン政権の戦いとして始まったが、リンカン大統領にとって大義ある戦争目的に欠けるところがあり、イギリスやフランスが南部を支持する動きがあることが懸念材料であった。戦争目的の転換 1862年9月、リンカンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷を解放を迫った。さらに、翌1863年1月1日に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示した。これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に理があるとして支持に転換した。また、1862年にはホームステッド法を施行して西部の農民の支持を受けて、さらに北部工業地帯の経済力を生かして次第を挽回し、1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が大勝、最後は北軍のグラント将軍が南軍のリー将軍を降服させ、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落、1865年4月9日に南軍のリー将軍が降伏、一部の抵抗は6月は時まで続いたが戦争は終結した。
南北戦争の死者
南北戦争は1861年4月に始まり、65年4月まで4年間続き、その間、大きな戦闘が約50回、小さな戦闘は無数にあった。両軍併せて61万8千人、北軍は36万人、南軍が25万8千人の戦死者であった。62万に近い死者の数は、第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万と比べてあまりも大きい。アメリカが体験した戦争の中でもずば抜けて大きな犠牲者の数であった。<猿谷要『物語アメリカ史』p.99>参考 よみがえる南北戦争 National Geograhic 特集「南北戦争 時代を超える戦場の記憶」
戦争の意義
建国以来の南北の地域的対立、連邦政府に対する州の独立性の強さ、などの国家としての弱点から起こった戦争であったが、それが北部の勝利という形によって克服されたことによって、何よりもアメリカ合衆国の統一が維持強化されたこと、また国家の経済基盤が北部中心の工業力に移り、戦争前から始まっていたアメリカの産業革命がさらに進展することとなった。最大の争点であった黒人奴隷制度は廃止されるという大きな前進がもたらされたが、現実には新たな黒人差別問題の出発点ともなった。いずれにせよ、南北戦争はアメリカ合衆国という大国の成立、その工業化による繁栄と多人種国家としての苦悩の出発点であった。南北戦争のアメリカ合衆国が、19世紀末から20世紀にかけて世界に大きな存在となっていく。Episode are から is へ
(引用)南北戦争は、アメリカ史上最大の犠牲をもたらした戦争であった。また、中国での太平天国の乱(1851~64)と並んで、19世紀最大の戦争であった。・・・アメリカが分裂の危機に陥ったこの戦争を乗り越えて、ようやく本格的な国民意識が芽生えた。この戦争以前は、アメリカ人も外国人も、この国を「The United States are ....」と複数形で呼んでいたという。戦後は、are が単数形 is になるのである。以後、1960年代に国家としてのアイデンティティーが大きく動揺するまで、アメリカ史は1世紀にわたってナショナリズムの時代を過ごした。いわば思春期である。<村田晃嗣『アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.62-63>
南北戦争後のアメリカ
奴隷解放宣言に続き、1865年に議会で憲法修正第13条が成立して黒人奴隷制の廃止が確定した。南北戦争で北軍が勝利した直後にリンカンは暗殺されたが、戦後は共和党に主導された議会は南部諸州に対し、連邦軍を駐留させ、南部諸州の「再建」の条件として奴隷制廃止の憲法修正の批准をせまり、それに従って次々と南部諸州の復帰が実現した。その過程で、憲法修正第14条では黒人の市民権が承認され、さらに憲法修正第15条で黒人投票権が承認された。戦後の黒人差別復活 アメリカ南部諸州は1870年までに憲法修正事項を承認して連合国に復帰し、統一は再現された。しかし、1877年4月までに連邦軍の南部からの撤退し「再建期」がおわると、南部諸州では事実上黒人投票権は奪われ、さらに社会生活や学校教育などで隔離されるようになり、黒人差別が復活していった。その背景には、解放された黒人が経済的に自立することは困難であったため、シェアクロッパー(分益小作人)という状態に置かれ、貧困が続いたことがあった。
こうして奴隷解放はただちに黒人が平等な諸権利を獲得したことにはならず、むしろ南部諸州では黒人に対する暴力が横行し、白人の差別主義者の中にはクー=クラックス=クランといわれた秘密結社を作り黒人を迫害する者も現れた。南部ではさまざまな黒人取締法が制定され、黒人は身分上は自由ではあるが社会的には差別された存在となり、ジム=クロウと呼ばれるようになり、1896年には最高裁判所が黒人分離政策は合法であると判定されるに至る。このような黒人差別が法的に解消されるのは、南北戦争から約百年後の1964年に公民権法、翌年の投票権法の成立などがするまで待たなければならなかった。また、2008年はオバマが黒人として初めて大統領に選出されるまでに至ったが、現代もなお人種問題はアメリカ合衆国の深刻な病巣となっている。
南北戦争と世界
フランスのナポレオン3世が、南北戦争の勃発に乗じて、メキシコに出兵した。メキシコではフアレスを中心とした自由主義者による抵抗が強く、ナポレオン3世の野望はくじかれ、それをきっかけに第三帝政は下り坂となり1870年の普仏戦争で崩壊する。そのころイタリアではイタリア統一の動きが進み、1861年、ヴットリオ=エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が成立した。同じ年、ロシアでは農奴解放令が出されている。
南北戦争はアジアにも影響を及ぼしている。南北戦争でアメリカの綿花輸出がストップしたため、インドのイギリス向け綿花生産は急増した。清では前年にアロー戦争が終わり、太平天国の乱が続くなかで西太后がクーデタで権力を握った。1853年、日本の開国を主導したアメリカだったが、南北戦争のため、いったんアジアから後退し、代わってイギリスの日本への進出が強まる。日本は開国後の輸出超過が物価高騰を招き、攘夷事件がさかんに起こって幕末の混乱が深刻化していった。
南部にとっての南北戦争
南北戦争は、全人口の比率で北部が南部の2.5培(軍役適齢者の自由人男性では北部が4.4培)、鉄道の総マイル数で北部が2.4培、産業生産高で10倍、武器製造で32倍など、北部が圧倒的に優位だった。南部は綿花生産高で世界の4分の3近くを占めていたが、それは遠くヨーロッパに運ばれなければ価値を生み出さなかった。それでも有利と考えられる利点がいくつかあった。軍事的には南部人は高い意識を持ち、常駐の軍人の数、軍事学校の数などで北部より多く、銃器の扱いは北部人より慣れていた。(引用)しかし南北戦争で何よりも重要なポイントは、「南部軍は自分たちの土地のために、自分たちの土地を舞台にして、戦争を戦った」という点である。南部の軍隊は戦場となる土地を熟知していた。また、戦争遂行の意味自体が抽象的であった北部軍とくらべて、南部軍には「土地を守る」という確固とした目的があった。南北戦争の目的が奴隷解放にあったという見方は、多くの歴史書で、現在ではまったくされなくなっている。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.115>南北戦争で北部軍がとった焦土作戦は、南部に深い傷を残している。特に北部軍のシャーマン将軍は徹底的に無慈悲かつ暴力的に南部に侵攻した。シャーマン将軍のやり口は“海への進軍”と呼ばれたが、それは南部人を大西洋まで追い詰めることであり、戦争終結後も長く南部人の記憶に残った。シャーマン将軍の部隊は1864年夏にアトランタを占拠し、11月15日には鉄道車庫や機械製作所など次々と襲い、戦火は住宅地域まで及び、待ちは一面焼き払われてしまった。北部軍は大西洋岸サバナに向かう途中、「なんでも好きなだけ略奪を行ってもよい」という指令が出されていた。ジョージア州の40から60マイルにわたる範囲の作物は焼き払われ、鉄道は破壊され、まともに立っている建造物はほとんどなくなるほど、すっかり荒廃した。<ジェームス・バーダマン『同上書』p.118>
このような北部軍の行為の記憶は、南部人が北部人をヤンキーとよんでいることに現れている。もともとヤンキーという言葉はニューイングランドのピューリタンに対する呼び名であり、質素で、野心家で、欲深く、巧妙な人々のことを指しており、彼らの商業活動が世界中に知られたことで広がったが、南部人にとってはこうした価値はまったく尊敬できないばかりか、しみったれ、強欲、守銭奴といった言葉の代名詞となった。<ジェームス・バーダマン『同上書』p.125>
→ ヤンキーについてはアメリカの南北対立を参照。