印刷 | 通常画面に戻る |

江華島/江華島事件

朝鮮半島西岸、ソウル近くにある島で、高麗では元軍を避けて都が避難した。近代ではたびたび外国船が来航、1875年には日本の軍艦が砲撃し、開国を迫る江華島事件がおこり、翌1876年、日朝修好条規(江華条約)を締結、朝鮮は開国した。

江華島 GoogleMap

江華島は韓国の西海岸中部、首都ソウルを流れる漢江の河口にある島で、古くからの要衝でもある重要な島。高麗王朝、朝鮮王朝のいずれにおいても江華島は首都の防衛上重要であると共に、国王の避難場所となってたびたび歴史に登場している。13世紀の元軍の来寇では、高麗王朝はこの地に遷都して江都と名づけ、元軍の攻撃から身を守った。高麗大蔵経はこの地で版木が造られた。
 鎖国政策をとっていた朝鮮王朝の末期大院君政権の時期、1866年にはフランス艦隊が江華島に来航して武力で開国を求めた。1871年にはアメリカ艦隊が江華島に上陸し砲台を占領しようとしたが、朝鮮軍によって撃退された。これらはいずれも江華島が首都ソウルを護る上で重要な働きをした例である。
 島の対岸はかつては済物浦と言われ、後に仁川と言われるようになった地域であり、朝鮮戦争で国連軍司令官マッカーサーが上陸作戦を敢行、北朝鮮国対する反撃に転じたところとである。江華島の隣の永宗島は、現在はアジアのハブ空港としてにぎわっている仁川(インチョン)国際空港があるところである。

江華島事件

 明治維新後、日本政府は朝鮮王朝(李朝)に開国を求めたが、朝鮮王朝の閔妃の閔氏政権は鎖国政策を守り、拒否していた。1875年9月、日本は軍艦雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領、守備兵を殺害し武器を略奪した。日本側は朝鮮側の砲撃の責任を問い、交渉のための開国を迫り、翌1876年日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国した。

江華島事件の経緯

 史実の書き替え 最近発見された日本側の海軍指揮官の記録によると、経緯は次のようなものであった。1875(明治8)年9月20日、航路研究の命によって朝鮮沿岸を測量していた日本艦雲揚は「測量及諸事検捜且つ当国官吏へ面会万事尋問をなさんと」してボートを下ろし、江華島の砲台に近づき、上陸をしようとしたところ、突然砲撃を受けた。小銃で応戦して直ちに本艦に戻り、翌日「此儘捨置くときは御国辱に相成、且つ軍艦の職務に欠く」ことになるので、雲揚が江華島第三砲台に近づき、砲撃を開始した。朝鮮側も応戦したが、その砲弾は雲揚に届かなかった。午後、陸戦隊を上陸させ砲台を焼き払った。翌日は陸戦隊22名を永宗島に上陸させ朝鮮側の35名余を殺し、大砲36門と小銃・槍・楽器などを戦利品として雲揚に持ち帰った。日本側は負傷者2名、1名は帰艦後死亡した。翌23日も上陸して前日運びきれなかった捕獲品を積み込み、28日に長崎に帰還した。以上が最近明らかになった経緯の概略であるが、正式報告書及びその後の政府の説明では、「日本艦雲揚は飲み水を求めて接岸しようとしたところ突然砲撃を加えられたので、自衛のために反撃した」ということになっている。実際には一方的な日本側の軍事行動であるが、それを薪水給与をせずに砲撃した朝鮮の不法として国際社会に示すための作為であった。<鈴木淳『日本の歴史』20 2002 講談社 p.126-132>