恐慌
資本主義経済で起きる不景気が、特に急速、深刻であった場合を「恐慌」という。倒産・失業などが急激に増大し社会に深刻な影響を及ぼす。世界同時に起きた場合が「世界恐慌」で、1929年に始まり、1939年からの第二次世界大戦をもたらした。
自由競争の原理に基づいている資本主義経済では、生産・消費の国家管理が行われないので、常に好景気と不景気の波が生じる。それはおよそ「好景気→設備投資→需要増加→生産過多→価格下落→生産抑制→倒産・失業の増加→需要低下→不景気(不況)→需給バランスの回復→価格上昇→設備投資→好景気・・・」という循環で起こる。この中で倒産・失業が大幅に起こり急速に不況に転換することを「恐慌」という。
過剰生産による恐慌は、1825年のイギリスではじめて起こり、それ以後ほぼ10年ごとに起こっている。好況と不況をくり返しながら、イギリスは産業革命を推進し「世界の工場」と言われるようになったが、1870年代に入ると大きく様相が変化し、アメリカ合衆国とドイツが急速に工業化を遂げ、イギリスを脅かすようになった。イギリスは工業生産より、金融業・海運業・保険業の比重が増し、いわゆるジェントルマン資本主義へと転化していった。その頃からイギリスは「世界の工場」から「世界の銀行」と言われることの方がふさわしくなったと言える。
世界恐慌はその克服過程でさらなる対立を生みだし、ブロック経済態勢への移行、ファシズム国家の出現、新たな植民競争での利害の対立などから第二次世界大戦へと向かうこととなった。一方で資本主義の矛盾の克服を掲げる社会主義国家が現実に登場、さらに列強による植民地支配に対して民族独立の要求が高まるなどが20世紀の新たな動きであった。
過剰生産による恐慌は、1825年のイギリスではじめて起こり、それ以後ほぼ10年ごとに起こっている。好況と不況をくり返しながら、イギリスは産業革命を推進し「世界の工場」と言われるようになったが、1870年代に入ると大きく様相が変化し、アメリカ合衆国とドイツが急速に工業化を遂げ、イギリスを脅かすようになった。イギリスは工業生産より、金融業・海運業・保険業の比重が増し、いわゆるジェントルマン資本主義へと転化していった。その頃からイギリスは「世界の工場」から「世界の銀行」と言われることの方がふさわしくなったと言える。
1873年の「大不況」
そのような時期、1873年5月にオーストリアのウィーンで始まった株式の暴落は、ヨーロッパ各国に広がり、その不況はそれまでにない深刻な影響を与えたので「大不況」といわれるようになった。これが最初の本格的な「恐慌」の到来と考えられている。特にイギリスはこの大不況の影響を受け生産がさらに落ちこんだが、一方のアメリカ・ドイツ・フランス・ベルギーはむしろこの時期に資本の集中が進み、産業の主体も軽工業から鉄鋼や機械などの重工業と新たな化学工業に移っていき、第2次産業革命を推進させることに成功、76年ごろから不況を脱していった。ドイツ帝国のビスマルクが1879年に保護関税法を制定して、保護関税政策に転換したのも、この大不況対策であった。帝国主義時代の恐慌
1870年代の資本主義の変化は、一般に帝国主義の段階と説明されており、列強が植民地獲得を競った結果、1914年の第一次世界大戦へと向かうこととなる。この時期のに起こった1900年~1903年の恐慌は、前世紀よりも経済規模が量的にも地域的にも拡大していたためにその影響は深刻で、多くの弱小企業を淘汰され独占資本の形成を急速に進めた。恐慌ははじめは資本主義国でそれぞれ個別に起こることが多かったが、世界経済の結びつきが強くなった第一次世界大戦後は、世界同時に起こるようになったのである。世界恐慌
その最大のものが1929年10月24日に始まった世界恐慌である。アメリカ・ニューヨークの株式取引所での株価大暴落から始まったが、アメリカ経済と第一次世界大戦後の賠償金問題で深く結びついていたヨーロッパにも及び、さらに日本などの後発資本主義諸国に及び、植民地経済にも影響を与えたので、またたくまに「世界恐慌」となり、1933年ごろまで経済の落ち込みが続いた。世界恐慌はその克服過程でさらなる対立を生みだし、ブロック経済態勢への移行、ファシズム国家の出現、新たな植民競争での利害の対立などから第二次世界大戦へと向かうこととなった。一方で資本主義の矛盾の克服を掲げる社会主義国家が現実に登場、さらに列強による植民地支配に対して民族独立の要求が高まるなどが20世紀の新たな動きであった。
戦後の経済協力態勢
第二次世界大戦後は、国際連合の成立と並んで国際通貨基金や世界銀行の設立などで、世界戦争の要因となる恐慌を二度と起こさないために各国は協力し、知恵を出し合いうという精神が具体化された。社会主義陣営との冷戦という環境の下で、資本主義陣営は、世界経済のルール作り、通貨や貿易での協力態勢、金融の規制、財政援助の国際システムなどを進めてきた。それらの西側戦後経済体制は現実にはアメリカ経済によって支えられていたが、1970年代からはヨーロッパと日本の復興とベトナム戦争の長期化などでゆらぎ、それに加えて石油危機などが続き、さらに1980年代には主要資本主義国では規制緩和、金融自由化など新自由主義が採用されるようになった。80年代末~90年代には社会主義陣営が崩壊して冷戦が解消するに及び、世界経済をアメリカが支配するという体制は完全に崩れ、経済協力態勢も大きく変質した。リーマンショックとその後
そのような新たな事態の中で、2008年のアメリカでリーマン=ブラザースの破綻から始まった金融破綻は世界同時不況をもたらし恐慌の様相を呈した。日本もふくめて大きな影響を受けたが、かつてのような世界恐慌に陥ることは回避され、2010年代には回復した。しかし、世界経済自体が成長の時代が終わり、低成長の時代へと移行したという指摘もある。旧来の資本主義先進国が低成長に入ったのに対して、21世紀に入って急成長を遂げたのが中国経済だった。急速な経済成長と表裏一体をなして南シナ海への進出に見られるような大国化の道を歩む中国には周辺から警戒、反発の目が注がれているが、その中で、2020年2月頃、武漢から拡がった新型コロナウィルスは、パンデミックとなって世界中の経済活動を直撃している。中国経済も巻き込むようになったグローバル経済のひろがりがパンデミックの背景にあるとすれば、これは従来とは異なる、新たな恐慌の姿なのかも知れない。この事態に世界がどう立ちむかうのか、が問われている。