保護関税法(ドイツ)
1879年、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの時に制定された、国内の産業を保護するための法律。ドイツの資本主義の育成を図った。
1870~80年代、ドイツ帝国の首相ビスマルクは、一連の帝国統一のための施策とともに、資本主義体制の安定をはかる国内政策を打ち出した。それは、社会主義者鎮圧法によって労働者の運動を押さえつける一方でのビスマルクの社会政策などの、いわゆる「アメとムチの政策」に現れている。
ビスマルクの国内政策の一つとして、外国から輸入する工業製品などに高関税をかけて国内産業を保護することで、遅れていたドイツの工業化を進め、資本主義を育成するための貿易政策として採られたのが、1879年に制定した保護関税法であった。 → 1932年の保護関税法(イギリス)
ところが、1873年にウィーンの証券取引所での株式暴落をきっかけに「大不況」といわれた恐慌(これが最初の世界恐慌と考えられている)が起こると、一転して不況に陥った。そのため、産業界からは、外国との経済競争に耐え抜くために自由貿易から保護貿易への転換を求める声が強くなった。同時に、交通手段の発達に伴ってアメリカやロシアから大量の安価な穀物が流入し、国内で穀物を生産している農民の利益を圧迫するようになっていたので、農園を帰営するユンカー層からも保護貿易主義への転換を要求するようになった。<飯田洋介『ビスマルク―ドイツ帝国を築いた政治外交術』2015 中公新書 p.170-171>
ビスマルクの国内政策の一つとして、外国から輸入する工業製品などに高関税をかけて国内産業を保護することで、遅れていたドイツの工業化を進め、資本主義を育成するための貿易政策として採られたのが、1879年に制定した保護関税法であった。 → 1932年の保護関税法(イギリス)
保護貿易主義への回帰
ドイツではドイツ関税同盟が結成され、経済学者リストらの主張によってして保護貿易政策がとられたことで、1840年代にドイツの産業革命が進行し、鉄道の建設を中心に重工業部門での工業化を進めていた。さらに、普仏戦争で得たアルザス・ロレーヌの資源と賠償金で1870年初頭のドイツ経済は好景気に沸き、鉄道の拡張とともに多くの株式会社が設立された。その中で、ドイツも自由貿易に転換し、ビスマルクも当初は保護関税政策をとらなかった。ところが、1873年にウィーンの証券取引所での株式暴落をきっかけに「大不況」といわれた恐慌(これが最初の世界恐慌と考えられている)が起こると、一転して不況に陥った。そのため、産業界からは、外国との経済競争に耐え抜くために自由貿易から保護貿易への転換を求める声が強くなった。同時に、交通手段の発達に伴ってアメリカやロシアから大量の安価な穀物が流入し、国内で穀物を生産している農民の利益を圧迫するようになっていたので、農園を帰営するユンカー層からも保護貿易主義への転換を要求するようになった。<飯田洋介『ビスマルク―ドイツ帝国を築いた政治外交術』2015 中公新書 p.170-171>
ビスマルク内政の保守化
ビスマルク自身がユンカーであり、また支持基盤である資本家層の要求には応えざるを得なくなって、1879年7月に保護関税法を帝国議会で成立させた。ビスマルクが保護関税政策に転じたもう一つの理由は、帝国の財政問題があった。ドイツ帝国は22の君主国と3つの都市共和国の連邦国家であり、直接税はすべて各邦の財源に充てられ、帝国の財源は間接税と関税、事業収入によってまかなわれ、不足する分は方からの拠出する分担金に依存していた。従って保護関税政策で高関税にすれば帝国の財源である関税収入が増えることが考えられるので、ビスマルクは積極的に保護関税導入を進めたのだった。議会では自由主義を掲げる国民自由党が反対し、政治問題化したが、ビスマルクはかつて文化闘争では対立したカトリック中央党を抱き込むことで保護関税法を議会通過に成功した。国民自由党は法案への対応をめぐって分裂し、急速に衰退した。この保護関税法制定は、前年の社会主義者鎮圧法制定とともに、ビスマルクの国内政治が明確に保守化を強めたことを示している。 <飯田洋介『同上書』 p.171-173>