ビスマルク
ユンカー出身のプロイセン・ドイツ帝国の政治家。1862年、ヴィルヘルム1世のもとでプロイセン首相となり、軍国主義化を進め、普墺戦争・普仏戦争で勝利に導き、1871年にドイツ統一を実現、ドイツ帝国の宰相として、東方問題、アフリカ分割などで列強の利害を調整しながら巧みなビスマルク外交を展開した。外交では一貫してフランスの孤立化を進めるためのロシア、オーストリアとの提携を進め、内政では社会主義者鎮圧法、カトリック抑圧など強圧的姿勢を採ったが、次第に行きづまり、新皇帝ヴィルヘルム2世と対立し1890年に辞任した。
Otto Von Bismarck
1815-1898
鉄血政策
プロイセン王国首相兼外相に就任直後、皇帝ヴィルヘルム1世の意図を受けて軍政改革、軍備拡張を図って議会と対立したとき、ビスマルクは「現下の大問題は言論や多数決――これが1848年、49年の大きな間違いであった――によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」
という有名な演説を行った。この演説は「鉄血演説」、それ以後のビスマルクの政策は鉄血政策と言われ、ビスマルク自身にも鉄血宰相というあだ名がたてまつられた。
言うまでもなく鉄とは大砲や銃・銃弾、軍艦などの武器を意味し、血とは兵士の流す血を意味している。つまり、ビスマルクはプロイセンの軍事大国化のためには議会や言論は無視することを宣言したのだった。
Episode ビスマルクの隙間論
ヴィルヘルム1世とビスマルクが進めようとした軍政改革・軍備増強に対して、議会の多数を占めていたブルジョワ自由主義政党である進歩党は強く反対していた。このビスマルクとプロイセン議会の対立は、プロイセン憲法紛争と呼ばれている。議会はビスマルク政府の予算案を否決したのだが、ビスマルクは強引にその予算を執行した。その時の演説が鉄血演説だった。ビスマルクが議会が否決したにもかかわらず予算を執行した論拠は、当時の憲法に予算不成立の場合の規定が無く、にもかかわらず政府には国を統治しなければならない義務がある、従って政府は予算なしでも執行権を行使して統治責任を果たさなければならない、という理屈であった。このような憲法の不備を突いたビスマルクの理屈は「隙間論」と言われた。議会が予算を否決したにもかかわらず、軍備増強を進める首相に対して、議会は不信任できなかった。議院内閣制ではなく、首相は皇帝が任命するものだったからだ。また進歩党自身も、ビスマルクの議会無視に強く反発しなかった。進歩党は自由主義を標榜していたが、彼らは制限選挙で選ばれた有産階級であり、反政府運動が大衆化することまでは望んでいなかった。その結果、進歩党の中にもビスマルクを支持する者が現れ、結局分裂してしまい、その強権的政治をチェックする能力を失ってしまった。しかし、ビスマルクは単純な独裁者ではなかった。後に、普墺戦争の勝利でその権威を確立すると、一転して議会と和解し、予算執行の「事後承諾」を求めた。議会もそれを認め、ここに軍事優先政策を議会が追認していくというビスマルク政治のスタイルが出来上がった。
ビスマルクの戦争政策
まず、1864年にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題でオーストリアと共同してデンマーク戦争を起こし、デンマークを破った。しかし、ビスマルクの当面の叩く相手はそのオーストリアであった。同じドイツ人国家であるが、ドイツ連邦の主導権を巡って対立が続いていた。1866年、普墺戦争をわずか6週間で勝利させ、懸案のドイツ統一問題に「小ドイツ主義」(実態は「大プロイセン主義」だが)の結論をもたらし、翌1867年7月には、後のドイツ帝国の前身となる北ドイツ連邦を発足させた。この勝利によってビスマルクの主導権は確実なものとなり、議会もそれを追認した。普仏戦争とドイツ帝国の成立
ビスマルクの軍備増強策は、モルトケという天才的な軍人の活躍もあって、プロイセン陸軍を最強の軍隊に仕立て上げた。プロイセンにとっての脅威はフランスのナポレオン3世であり(ナポレオン3世はドイツ内部のカトリックと結び、バイエルンなど南ドイツに勢力を伸ばそうとしていた)、かつてのナポレオンに征服されたことへの復讐心と重なっていた。ビスマルクはスペイン王位継承問題の渦中でエムス電報事件などの巧妙な手段でナポレオン3世を挑発し、ついに1870年、普仏戦争に持ち込み、圧倒的勝利を重ねてスダンの戦いではナポレオン3世を捕虜とし、パリに迫った。翌1871年1月8日には占領したヴェルサイユ宮殿において、ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を挙行して、ドイツ帝国を成立させ、自ら初代首相となった。以後約20年にわたって、ドイツ帝国国内の秩序を維持するとともに、ヨーロッパの国際政治ではフランスの再起を抑えることを目標に、列強との秘密軍事同盟を締結して勢力均衡を図るという、ビスマルク外交を展開し、ビスマルク体制と言われる国際秩序を造り出した。
ビスマルクの内政
国内政策では、ユンカー階級の利益を優先したドイツ帝国の維持に努め、それに敵対する勢力としてカトリック勢力(中央党)、ついで社会主義勢力(ドイツ社会民主党)を厳しく弾圧した。南ドイツを中心としたカトリック勢力とは文化闘争を展開してドイツ帝国の統一を強化し、社会主義政党に対しては1878年、社会主義者鎮圧法を制定する一方、社会政策を推進し、アメとムチと言われる両面で労働者・社会主義者の進出を抑えようとした。さらに国内産業を保護育成するため、1879年、保護関税法を制定した。 しかし、ビスマルクはカトリック勢力とは結局妥協に追い込まれ、また社会民主党も地下に潜りながら党勢を拡大したので、内政面では成功したとは言えなかった。ビスマルク時代のドイツ社会
(引用)だが、ビスマルクにはちょうど不運にも、彼の時代のほとんどが経済不況の時代だった。ヴィルヘルム2世には幸運にも、彼の時代が戦争まで――ある意味では戦時中も――好景気の時代だった。ところで、それにはさらに別なことが関連している。ビスマルクの時代には、まだ西方への移動、すなわち古プロイセンの農業地域から、西方の工業地域への絶え間ない移動があった。さらに、20年にわたるビスマルクの時代を通じて、百万人以上のドイツ人がアメリカに移住 していた。彼の宰相時代以後になると、ドイツ人の移住は減少し、ついにはほぼ完全に途絶えてしまった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.49>
ビスマルク外交/ビスマルク体制
外交政策ではドイツ帝国の国際的威信を高め、フランスの反撃に備えるというビスマルク外交を展開した。ビスマルクの外交政策によって出来上がったヨーロッパの国際秩序をビスマルク体制とも言う。まず1873年、ロシア・オーストリアとの三帝同盟を締結し、フランスの孤立化をはかった。しかし、三帝同盟はロシアとオーストリアの対立を含んでおり、1877年の露土戦争でロシアがバルカン進出を強めたことから対立が表面化して崩れた。ビスマルクは1878年にベルリン会議を主催して「公正なる仲介人」と称して調停にあたったが、ロシアの権益を奪う結果となったためロシアは反ドイツ感情を持つようになった。それに対して1879年、ビスマルクはオーストリアとの独墺同盟を結び、さらにイタリアを引き込んで、1882年に三国同盟を結成した。一方では三帝同盟を復活させ、ヨーロッパに同盟網を張り巡らした。さらに1887年、ロシアとは秘密裏に独露再保障条約を締結し、フランスへの接近を防止した。しかしこれらの秘密軍事同盟は、矛盾した対立関係を含んでおり、それによって作られたはずの勢力均衡・安全装置は危ういものであった。結局、ビスマルク辞任後には新たな帝国主義列強の対立軸が動きだし、20世紀初頭の第一次世界大戦が勃発することとなった。ドイツの植民地政策
ビスマルクは、領土拡張や植民地拡大には消極的であり、もっぱら他の列強とのバランスをとることによって平和を保とうとした。植民とは、1884年~85年のベルリン会議を主催しアフリカ分割に関する調停を行い、トーゴ、カメルーン、ドイツ領東アフリカ、ドイツ領南西アフリカの4地域をドイツ帝国の保護領として宣言した。ビスマルクの退陣
1888年、ヴィルヘルム1世が死去し、ヴィルヘルム2世が即位すると、若い皇帝はビスマルクを嫌い、ことごとく反発しした。まず、労働者保護の社会政策を打ち出し、社会主義者鎮圧法の改正を進めようとしたビスマルクと対立、1890年の選挙でビスマルクの与党保守党が敗れるとビスマルクは辞表を提出、1890年3月20日、皇帝はそれを受理し、実質的な罷免となった。これによって1862年以来30年近く続いたビスマルク時代は終わりを告げた。