国民保険法
1911年、イギリスの自由党アスキス内閣が成立させた社会保障制度。
1911年、イギリスの自由党のアスキス内閣で、ロイド=ジョージ蔵相の提案で成立した。ドイツのビスマルクの社会政策で実施した社会保険制度をもとに、健康保険と失業保険を含む社会保険を実現させた。健康保険の掛け金は、被用者と雇い主および国家が4対3対3で負担し、被用者は病気の際に無料で医療を受けられることとなった。失業保険も同様に三者の拠出でまかなわれ、失業中も一定期間は保険が給付がされることとなった。フェビアン協会など社会主義者は被用者の負担に反対したが、とりあえず成立したことはイギリス社会保障制度の大きな前進と言える。
なおその後イギリスの社会保険制度は整備が進められ、1946年のアトリー 労働党内閣で「国民保険法」は改正されて健康保険・失業保険の他に、出産給付、退職年金、寡婦給付などが定められた。第二次世界大戦後のイギリスは、社会保障制度の充実という福祉国家の実現をめざし、いわゆる「ゆりかごから墓場まで」の最低生活の保障を理想として政策を進めた。
なおその後イギリスの社会保険制度は整備が進められ、1946年の
1911年の国民保険法
自由党の大蔵大臣であったロイド=ジョージはみずからドイツに行ってビスマルク以来の社会保険制度を調査し、1911年に「国民保険法」を成立させた。それは第1部・健康保険、第2部・失業保険からなる。いずれもすでにドイツや他のヨーロッパ諸国で実現していたものであるが、イギリスの失業保険は強制された点が世界最初のものであった。またドイツの失業保険では拠出は賃金に比例する方式であったが、イギリスは拠出も給付も定額制とし、最低保障の意味合いが強く、それ以上の保障は自立にまかせることに期待していた。この失業保険制度の策定にあたったのがベヴァリッジであった。ベヴァリッジは失業は資本主義経済の景気の循環による一時的な現象と見て、失業保険は経済が好転するまでの間の一時的措置と考えていた。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.23-26>Episode ウェッブ夫妻の失業保険制度反対論
ところが、ウェッブ夫妻はこの失業保険制度に反対した。社会主義者として知られるウェッブ夫妻がなぜ反対したのか。それはこれが失業者の救済にはなろうが、“失業者を出さない対策”にはならず、むしろこれがあるから経営者は安易に労働者の首を斬り、労働者は安易に転職するという“モラルハザード”を起こす懸念があると考えたのである。また拠出が強制される点も、労働者の自発性を無くし、賃金を節約しようという衝動を無くすことになる、と反対した。ウェッブ夫妻は社会主義者ではあるが、大きな国家権力を前提とするマルクス主義者ではなかった。後の社会民主主義につながる思想であったと言うことが出来る。<橘木 同上 p.26-29>救貧法から失業保険へ
第一次世界大戦後のイギリス経済の後退は、失業者を徐々に増大させ、救貧法は意味をなさなくなった。1929年救貧法の実務を担当する保護委員会の制度が廃止となり、実質的に救貧法は終わりを告げ、代わって失業保険の役割が増大した。しかし1930年代も高失業率は続き、失業保険制度をどうするかが国民的な課題となった。その間、失業の原因や対策を考えることが経済学の主要な研究テーマとなり、ケインズは従来の自由主義経済を批判して、有効需要を創出するというマクロ経済学が生まれた。 → 戦後イギリスの社会保障制度