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救貧法

1601年、エリザベス1世の時に制定された貧民救済の法律。社会保障制度の始まりであり、教区ごとの救貧税によって貧民を救済する内容であった。1834年に改正救貧法(新救貧法)が制定され、教区の役割は終わり、行政の仕事とされることとなったが、同時に自助が強調されるようになった。

 イギリスの絶対王政エリザベス1世の時の1601年に制定された法律 Poor Low 。当時イギリスでは、第1次エンクロージャーが進み、土地を無くした農民が年に流れ込み、その貧困が問題となっていた。それまでイギリスでは国王が命令して教会から徴税した資金をもとに貧民に給付するというキリスト教的慈善心に基づいた慣行があったが、エリザベス1世の政府は、まず1572年にそれを法制化し、ついで1601年に全面的に改定して救貧法として制定した。これはその後のイギリス救貧法の出発点となるもので、すでに今から400年前に始まっていることに注意を要する。

エリザベス救貧法

 1601年のエリザベス救貧法の内容は、教区ごとに救貧税を設けてそれを基金とし、働くことの出来ない老人や身体障害のある人にはお金を支給してその生活を援助し、働く能力のある貧民に対しは亜麻・大麻・羊毛・糸・鉄などの原料を与えて就労させた。また貧民の子弟には技術を教えるために徒弟に出すことを奨励した。その特色として次の点が上げられている。
  • 地方の教区ごとに課税し、それを財源に働くことの出来ない「労働無能力者」を救済する義務がある。
  • 働くことの出来る「労働能力のある貧民」には出来るだけ働くようにし、「ワークハウス」で強制労働もあった。
  • 「労働無能力者」の親族には扶養義務があるとした。
「労働能力のある貧民」に対する「ワークハウス(勤労場または懲役場)」では、「劣等処遇原則」つまり、そこで働く者に対しては独立して働いて者に対する処遇を上回ってはいけない、という原則が適用された。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.3-4>

救貧法の周辺

 エリザベス時代に救貧法が制定された背景には、イギリス宗教改革によって修道院が解体されたことがあった。貧民や捨て子は修道院に収容するという従来の道が断たれたため、1601年の救貧法(それまでも出されていた貧民対策のための法律の集大成として制定された)では、教区(パリッシュ)がその役割を替わって引き受けることとなった。教区は住民の信仰生活の核、近隣共同体であり、権力の統治の末端でもあった。教区教会には司祭が赴任し、住民は教区の寄合に集い、道路や橋のメインテナンスと貧民や婚外子の措置にあたった。全国で1万ほど、平均するとこの頃の教区人口は数百人程度で、住民は互いに顔も名も見知っていた。
 救貧法と同じ1601年に、「チャリティ用益法」が制定され、貧民救済、教育と宗教の振興、その他コミュニティの益のために設立される公益団体の法的根拠となった。中世以来、チャリティで運用されていた大学などの設立根拠もここで確定した。チャリティ法は現在まで継承されており、イギリスの社会政策の特徴は税(行政)とチャリティ(民間の慈善)という二本柱からなっているが、その根拠となる法律の源が同年に制定されたこの二つの法律である。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.100-101>

Episode 浮浪人乞食処罰法

 エリザベス1世の時代にはさまざまな社会政策が打ち出されたが、1598年に制定された浮浪人乞食処罰法は、矯正院を設置し、浮浪人、乞食は「上半身を裸にして体が血で染まるまで公衆の面前で鞭打ちした」後に、生まれた教区に送還して労働に従事させるというものだった。<『世界各国史・イギリス史』旧版 山川出版社 p.142>

エリザベス救貧法の背景

 エリザベス救貧法で救済されたのは、資本主義社会での貧困層ということではなく、寡婦や独居老人がその対象であった。その背景には近世イギリス社会の家族のあり方が関係している。
 近世イギリスの家族は、(1)早い時期から単婚核家族であること、(2)晩婚であること、(3)だいたい14歳前後から、男女とも短くても7年、短ければ10年以上、よその家庭に奉公に行くライフサイクル・サーヴァントの習慣があったこと、の三点の特徴がある。この奉公は修行期間と考えられ、結婚しない。従って結婚は20代後半、当時の世界で見ればかなり晩婚であった。また親元にはかえらないので、親は子供に養ってもらう事はない。そのため、親のどちらかが死ねば、どちらかが独居老人となる。また当時は病気で若死にすることが多かったから、寡婦や孤児になる率も高かった。エリザベス救貧法が対象としたのはそのような寡婦や孤児、独居老人であった。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.26-33>

産業革命期初期のスピーナムランド制

 18世紀になると第2次エンクロージャーが進行し、産業革命がもたらされた結果、農業社会から工業社会に移行し、工場労働者が急増したが、その労働条件は劣悪で、低賃金による貧困層も増大した。そのため、エリザベス救貧法によるワークハウスでは収容しきれなくなった。そのため、1795年にヤング法でスピーナムランド制が作られた。これは低所得者の生活費を補助するもので、パン価格と家族人数によって世帯に必要な最低生活費を算出し、所得がそれに満たない場合にその差を支給する、という制度であった。今日でいう最低賃金制度の萌芽であった。その財源は土地保有税で調達したため、土地への課税によって地主階級を没落させ、最低賃金を国が負担することで労働力を増加させて産業革命を助長する側面があった。このような最低賃金制度に対しては、逆に労働者の勤労意欲を疎外し、安易な生活に流れた労働者が子供を産めば人口増につながり経済を圧迫する恐れがあるとして、人口論で著名なマルサスは批判している。またリカードは貧困者への公的扶助を貧困者以外から取ることは、その人々の可処分所得を減らすことになり、経済成長を妨げるとして批判した。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.5-6> “社会保障か、自助か”という議論はこのころからあったわけだ。

1834年の新救済法

 産業革命が進行し、資本家層が力をつけてくると、マルサスやリカードに代表される救貧法・スピーナムランド制に対する批判は徐々に強まり、1834年に救貧法は改定されることとなった。この新救貧法は、
  • スピーナムランド制は廃止。
  • ワークハウス以外での勤労者の救済を厳しく制限、働くことの出来る人には働くことを強制し、それを拒否した場合は厳罰で臨む。
  • 地方の教区ごとの救貧対策を改め、恒久的な中央救貧行政局を設置。
 このように新救貧法はアダム=スミス以来の経済自由主義の思想によるもので、労働者救済の側面では大きく後退した。労働者保護の立法は、同時に進んでおり、1823,4年には労働者の団結権の容認、1833年には工場法も制定される中で、この新救貧法に対して労働者は強く反対した。しかし、内容においては後退したものであったが、これによって教会や地域を単位とした救済ではなく、国家が統一的な施策で対応するという社会保障制度への第一歩となったという評価もある。<橘木 同上 p.10-12>  → ウェッブ夫妻 国民保険法 イギリスの社会保障制度

参考 1834年救貧法の評価

 現代イギリスの著名な歴史家の一人であるホブズボームが産業革命後のイギリスを分析したその著『産業と帝国』で、次のように言っている。
(引用)社会保障が労働者自身の努力に依存していたかぎり、したがってそれは中産階級の基準で見ると経済的に非能率になりがちであった。それが、わずかばかりの公共の援助を決定する彼の支配者に依存しているかぎりでは、それは物質的救済の手段であるよりはむしろ、堕落と抑圧の機関となった。1834年の救貧法ほど非人間的な法律はほとんどない。それはあらゆる救済を外部の最低賃金よりも「望ましくない」ものとし、貧民をその貧困のゆえに罰し、より以上に貧民をつくろうとする危険な誘惑からかれらを遠ざけるてめに強制的に夫と妻と子をひきはなして、監獄のような授産場に救済を限定したのである。それが完全に実施されたことはなかった。というのは貧民がつよいところではかれらはその極端さに抵抗したからであり、やがてそれはわずかながら刑罰的ではなくなった。しかしそれは第一次世界大戦の前夜にいたるまでイギリスの貧民救済の土台となっていたのであり、チャーリー・チャップリンの子供の時の経験は、ディッケンズの『オリヴァ・ツイスト』が1830年代のそれにたいする民衆の恐怖を表明したときと、ほとんどそのままであったことを示している。<ホブズボーム/浜林正夫他訳『産業と帝国』1984 未来社 p.106>
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書籍案内

橘木俊詔
『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』
2010 東洋経済新報社

川北稔
『イギリス近代史講義』
2010 講談社現代新書

ホブズボーム
浜林正夫他訳
『産業と帝国』
1996 未来社