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自由党

イギリスの政党でホイッグ党の後身。19世紀後半から20世紀初頭に最も党勢が盛んで、改革を実現させたが、アイルランド自治法案を巡って分裂。第一次世界大戦前後には政権を握ったが、戦後は労働党におされ次第に後退した。

 それまでのホイッグ党が、1830年ごろに自由党(Liberal Party)と呼ばれるようになった。正式には、ホイッグ党に保守党から分裂したピールら自由貿易派が合流し、それに急進的な自由貿易派が加わった三党派が合流して、1859年6月に「自由党」Liberal Party を結成したことから始まる。
 ホイッグから自由党に進化する間、産業ブルジョワジーの利益を代表する政策を主に主張したが、その指導者グレイ(第1回選挙法改正)、メルバーン、ラッセル、パーマーストンらはいずれも地主出身であったので、自由主義的な地主階級(ジェントリ)の政党という性格も強かった。

グラッドストンの時代

 1865年以降、グラッドストンが指導した時期はブルジョア的自由主義の政策をとって保守党との二大政党制を現出した。
 グラッドストンの自由党は、19世紀後半のヴィクトリア朝時代に、保守党のディズレーリの帝国主義政策を批判し、1880年の総選挙では保守党に大勝して第2次内閣を組織した。グラッドストン内閣は第3次選挙法改正(84年)を実現し、女性参政権を除いて普通選挙に近い選挙制度を実現するなどの改革を行った。

自由党の分裂

 グラッドストンは、アイルランド問題の解決に並々ならぬ熱意を持っていた。第1次内閣ではアイルランド土地法(小作人保護を目的とする第一次法、70年)を実現させたが、第2次内閣のアイルランド土地法(借地権の保護を定めた第2次法 81年)によってでも、自治要求闘争を抑えることはできなかった。第3次内閣を組織した、1886年、アイルランド自治法案を提出したが、同じ自由党内のジョセフ=チェンバレンらが自治付与に強く反対し、自由統一党を結成、自由党は分裂した。
 また、植民地におけるナショナリズムの高まりによってエジプトやスーダンで反英闘争が活発になると、グラッドストンはそれらに同情的な姿勢を見せ、ゴードン将軍がマフディーの反乱軍に殺害されるのを防げなかったことで、非難を浴びることになった。こうして、アイルランドを含む植民地問題への対応は、自由党を分裂させ、その党勢を一時的に失わせることとなった。 → イギリス帝国主義政策
 その後、ジョセフ=チェンバレンは保守党と合同して統一党をつくり、ソールズベリ内閣の植民地相として、南ア戦争などの帝国主義的膨張政策を積極的に進め、その間、自由党は野党の立場に立たざるを得なかった。しかしドイツとの帝国主義的対立が深刻になると、自由党自身も次第に自由主義を堅持しながら帝国主義政策を支持するように偏執していった。いわゆる「自由帝国主義」などとといわれる妥協的な姿勢を取るようになる。

自由党内閣による改革

 南ア戦争は初期の想定を超えて長期化し、オレンジ自由国とトランスヴァール共和国の併合という植民地を獲得する勝利となったが、多くの人的損害とともに軍事費は国債に依存したので、膨大な財政赤字を残した。そのような帝国主義の矛盾が表面化したことによって、保守党(統一党から戻る)政権は退陣し、1905年にキャメル=バナマン自由党内閣に交替した。自由党は1906年の総選挙で保守党に大勝し、アスキスが内閣を組織し、次々と改革法案を成立させた。まず1906年の労働争議法によるストライキ権の保護、労働者賠償法、学童給食法などを成立させた。1908年以降には養老年金法、住宅及び都市計画法、職業紹介所法などが続いた。最も重要なものが、1911年のアスキス内閣での国民保険法の制定である。
 ドイツのヴィルヘルム2世の帝国主義政策の脅威が強まり、建艦競争を展開するようになると、その財源確保のため、アスキス内閣の蔵相ロイド=ジョージは富裕層への課税で乗り切ろうとし、上院がそれに抵抗すると議会法を成立させて予算決定での下院の優先の原則をうちたてた。
 懸案のアイルランド問題も一定の前進を見せ、1914年にアイルランド自治法が議会を通過したが、第一次世界大戦の勃発によってその実施は延期され、かえってアイルランドの反発が強まった。

ロイド=ジョージ

 第一次世界大戦の勃発によって、戦時内閣による対応が迫られ、1915年5月、自由党のアスキスが首相を務め、保守党・労働党からも閣僚を出して初めて「挙国一致内閣」を組織した。しかし、アスキスの戦争指導には同じ自由党のロイド=ジョージらが批判的であったため対立が生じ、16年12月に首相はロイド=ジョージに替わった。それ以後、ロイド=ジョージが第一次世界大戦期と戦後のヴェルサイユ体制の指導で活躍した。

第一次世界大戦後の衰退

 1916年、自由党はロイド=ジョージの連立自由党と、アスキスらの独立自由党に再び分裂した。第一次世界大戦末期の1918年に選挙法改正(第4回)が成立して30歳以上の女性参政権が認められると、同年の選挙で労働党が躍進、第一次世界大戦後の1922年の総選挙ではともに少数野党に転落、1924年には労働党マクドナルド内閣に連立として加わり、両党は1926年に再統一を果たしたが、その後も低迷が続いた。1928年には選挙法改正(第5回)が行われて21歳以上の男女平等の選挙権が認められると労働党がさらに党勢をのばし、1928年の選挙で労働党は第一党となりマクドナルド労働党単独内閣を組閣、自由党は野に降った。

第二次世界大戦後の変化

 第二次世界大戦後は労働党と保守党の二大政党に挟まれて、弱小政党にとどまっていたが、労働党から1981年に分裂した社会民主党と、1983年に選挙連合を組み、さらに1988年に合同して社会自由民主党となった。翌1989年に党名を自由民主党に変更、保守党と労働党の二大政党を脅かす存在となっている。

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