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ストルイピン

第1次ロシア革命後の1906年よりロシアの首相として改革に当たりながら、革命運動を弾圧した。

 1905年の第1次ロシア革命の結果、ツァーリ政府は自由主義的なウィッテを首相として、憲法の制定、国会(ドゥーマ)の開設に追って立憲君主政体に移行したが、保守派との対立からウィッテが辞任した後、首相となったストルイピンは、一転して革命運動に対しては厳しく弾圧し、革命の進行をできるだけ抑えようとする政策に転換した。その際もっとも重視したのが土地改革であった。

ストルイピン改革

 ストルイピンは名門貴族の出身で、ペテルブルク帝国大学出身のエリートとして知事を歴任していた。首相となると革命運動の拡大を防止するために、農村改革に取り組んだ。ロシアの農村では1861年の農奴解放令によって農奴は法的に解放されたものの、その多くがミールといわれる農村共同体が共同で所有する土地に縛り付けられていた。そこでストルイピンは、ミールを解体し、農民に土地を分与して、自作農を創り出そすことによって農民層への革命の拡大を防ごうとした。

ミールの解体

 具体的には、農民がミール共同体の中で割り当てられている土地を私有地とすることを可能にし、農民が希望する場合には、散在している土地を一カ所に集中して団地をつくることを奨励した。この団地をオートルプといった。そのような独立自営の農民経営をつくり出し、ロシア農村の生産力を高めようというものであった。しかし、1906年から始まった改革事業で土地を私有地化した農民は、1914年までに農家全体の2割にすぎず、団地化した者は1割にとどまった。このことは、ミールの解体に農民の中に根強い反対があったことを伺わせる。

ストルイピンの暗殺

 ストルイピンの土地政策は、議会では下院である国会(ドゥーマ)では改革派からは不十分であると反対され、上院である国家評議会では貴族や大地主から過激であると修正を迫られた。ストルイピンは窮地に追い込まれるとしばしばツァーリの権限を道具とし、議会を休会にして勅令で法律を公布するという手段を使ったために、両方面から反発を受けるようになった。1911年9月、キエフの劇場において、皇帝の面前で元警察スパイのユダヤ人青年に暗殺されてその改革は未完に終わった。
 このストルイピンの改革は自作農をある程度は生み出したものの、一方でミール共同体から離脱した多くの農民は貧窮化し、農民の階層分化が進み、ロシア第二革命への社会変化の要因の一つとなった。
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