農奴解放令
1861年、ロシアのアレクサンドル2世が制定。不十分ではあったが、ロシアの近代化の前提となる。
19世紀中頃の帝政ロシアでは、人口6000万人、そのうち1200万人が自由民で、その中の約100万が貴族であった。貴族のうち、農奴を所有したロシア人貴族は約9万とされる。かれらは上は1000名以上の、下は100名以下の農奴を所有し、領土を耕作させていた。農奴は2250万を数える。<世界各国史『ロシア史』p.296による。>
かれら農奴は、土地に縛り付けられ、領主である貴族に、賦役や年貢を負担していた。このようなロシアの農奴制がツァーリズムを支えていたが、19世紀に入りアレクサンドル1世やニコライ1世の時代にはその廃止を求める声も強くなってきた。ウィーン体制のもとでヨーロッパ各地で自由主義や民族主義が勃興し、ロシアでも青年将校の中からフランスの自由主義の影響を受けたデカブリストの反乱なども起こったが、皇帝権力の維持を優先する保守派によって弾圧されてしまい、社会改革は実現しないままであった。
かれら農奴は、土地に縛り付けられ、領主である貴族に、賦役や年貢を負担していた。このようなロシアの農奴制がツァーリズムを支えていたが、19世紀に入りアレクサンドル1世やニコライ1世の時代にはその廃止を求める声も強くなってきた。ウィーン体制のもとでヨーロッパ各地で自由主義や民族主義が勃興し、ロシアでも青年将校の中からフランスの自由主義の影響を受けたデカブリストの反乱なども起こったが、皇帝権力の維持を優先する保守派によって弾圧されてしまい、社会改革は実現しないままであった。
クリミア戦争の敗北
しかし、ヨーロッパ列強との勢力拡大競争から起こったクリミア戦争で、ロシアはイギリス・フランス連合軍に完敗した。戦争末期に急逝した父ニコライ1世に変わって即位したアレクサンドル2世は、軍備の近代化に迫られたが、近代軍隊の兵士として農民から徴兵するには、農奴制は大きな障害になると考え、まず基礎となる農村社会の近代化を、皇帝みずからが「上からの改革」として行うことを決意し、1861年に「農奴解放令」を公布した。農奴解放令の要点
その要点は次のようなことである。- 農奴は人格的に解放された。
- しかし、農奴が耕作していた土地は、有償で分与される(地代の約16倍で)ことになった。
- 分与地を買い取る代金は国が肩代わりし、農民は国に49年年賦で支払うことになっていた。この支払いは解放された農民にとっても重い負担とになった。
- 分与地は農民個人に与えられるのではなく、まとめて共同体(ミール)に渡され、そこから農民が支払額に応じて分与地を得ることになっていたが、支払える農民は稀で、ほとんどが共同体の所有となった。
意義
このように農奴解放令は、ただちに自作農を創出することにはならず、ロシアの後進性は依然として根強く残存した。アレクサンドル2世の農奴解放は不十分なものであったが、これを機に1860年代以降、ようやくロシアの産業革命が始まることとなる。<外川継男『ロシアとソ連邦』講談社学術文庫 p.252 など> → 農奴/農奴制 農奴解放 封建的特権の廃止 封建地代の無償廃止 農奴解放令(1781) 農民解放(プロイセン)