ウィッテ
ロシア帝政末期の資本家、政治家。ロシアの工業化に大きな役割を果たす。日露戦争後のポーツマス会談で活躍し、帰国後初代首相となって立憲政の実現などの改革に当たった。
ウィッテは19世紀末のロシアの産業革命を推進し、ロシア産業の近代化に努めるとともに、優れた外交手腕を発揮して日露戦争後のポーツマス会談を有利に進め、さらに第1次ロシア革命の勃発をうけて1905年にニコライ2世のもとで初代首相となり、自由主義的な考えから立憲君主政の導入に踏み切って十月宣言を起草し、国会(ドゥーマ)の開設を約束した。翌年には憲法を制定して国会が開催されたが、ウィッテは保守派と衝突して辞任した。
ウィッテの経済政策
ウィッテはオランダ人の技術者とロシア名門貴族の娘との間に生まれ、まず民間鉄道の経営者として成功し、交通省に入り、鉄道建設を推進した。ニコライ2世のもとで、1892年に蔵相となった彼は産業育成のための通貨改革とともに積極的な外資導入を図った。ドイツの経済学者リストの弟子であったので、自国の工業をもたない国は先進国に従属すると考え、外国資本の導入に基づく工業化を進め、フランスから資金を借り入れ、ドイツから機械を購入して、シベリア鉄道の建設を推進した。その他、外資系の鉄鋼・石炭業を中心に工業発展を促進した。さらに日本が日清戦争で遼東半島を割譲させると、ウィッテはフランス、ドイツと協調して三国干渉で日本に圧力をかけ、それを清に還付させた。それによって1896年には満州を横断する東清鉄道敷設権を獲得した。<和田春樹『ロシア・ソ連』1993 地域からの世界史11 朝日新聞社 p.124,126>ポーツマス会談
日露戦争後の1905年、ポーツマス講和会議に代表として出席し、巧みな外交政策で日本代表小村寿太郎と渡り合い、実質的な敗戦国であるにもかかわらず、賠償金の支払いを伴わない点でロシアにとって有利なポーツマス条約を9月に締結して戦争を終了させた。第一次ロシア革命
帰国後、第1次ロシア革命の労働者のゼネストなどの攻勢が強まると、ウィッテは1905年10月、ニコライ2世に迫って十月宣言をださせ、国会(ドゥーマ)の開設を約束させた。ニコライ2世は内閣制度を発足させ、ウィッテを初代首相に任命して事態の収束に当たらせた。翌1906年、憲法を制定してロシアの立憲君主政を実現させ、国会が開催され、ウィッテはさらに自由主義的な改革を進めようとしたが、宮廷の保守勢力と対立し、まもなく辞任した。