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アドワの戦い/イタリア=エチオピア戦争(第1次)

1896年、エチオピアを侵略したイタリア軍がエチオピア軍に敗れた戦い。このときはエチオピアは植民地化の危機を脱した。

 1896年3月、イタリアエチオピアを侵略した帝国主義戦争である第1次イタリア=エチオピア戦争(単にエチオピア戦争とも言う)で起こった、イタリア軍がエチオピア軍に敗れた戦い。 → イタリアのアフリカ侵出
 エチオピアのメネリク2世は近代化政策をすすめ、国内の反皇帝勢力を抑えるために、1889年5月にはウッチャリ条約を締結して武器供与をうけることとしたが、その代償として保護権とエリトリア割譲を認めた。それによってメネリク2世はエチオピアの統一的権力を確保したが、イタリアはエチオピアの保護権を獲得した。

エチオピア軍の勝利

 メネリク2世は権力を獲得すると、イタリアに従属することを拒否し、フランスが接近して、1894年イタリアとのウッチャリ条約の廃棄を通告した。メネリクの違約に報復し、一挙にエチオピア制圧を狙ったイタリアは1895年1月に大軍を以て海岸地方のエリトリアから侵入した。イタリア政府はエチオピア軍との全面戦争になることを想定しエリトリアで軍備を増強させていたが、メネリク2世もフランスなどからライフル銃や大砲を購入し、エチオピア各地から約10万の兵士を徴募していた。イタリア軍は1895年1月、北部のエリトリアから侵攻し、ティグライ州の州都メケレをふくむ州の大半を占領したが、エチオピア軍の抵抗は根強く、12月には意メケレをイタリア軍から奪回した。イタリア軍はアドワ近郊に駐留したが兵力は約1万7千にとどまり、本国からの支援は十分とは言えなかった。決戦を回避するための交渉がもたれたが決裂、1896年3月1日、エチオピアの大軍の前にイタリア軍の損失が続き、6000名以上の死傷者を出した。このアドワの戦いに至る一連の戦いを第1次イタリア=エチオピア戦争ともいう。
 エチオピア軍の勝利は、イタリア軍に対して兵力で圧倒したこと、大量のフランス軍からの武器の支援を受けていたこと、などがあげられるが、アフリカの一国がヨーロッパの帝国主義をかかげる国に勝利したことは世界に大きな衝撃を与えた。1896年10月にエチオピアの首都アジスアベバで締結された講和条約によって、ウッチャリ条約は破棄され、エチオピアの主権と独立は第3条で明文化された。

参考 アドワの戦いと日露戦争

 19世紀中ごろから20世紀初頭、ヨーロッパ列強は世界の各地で圧倒的な戦力で勝利し、植民地化を進めていた。ヨーロッパ列強の勝利が続くなか、例外的にアフリカ・アジア側が勝利した戦いがあった。ひとつが1896年のこのアドワの戦いでのエチオピアの勝利あり、もう一つが1904年、日露戦争での日本の勝利であった。そこから、この二つの戦争はよく比較されることとなっている。
(引用)この二つの戦争は、二つの点が一致している。ひとつは、ヨーロッパ列強の一国に勝利して植民地化を回避できたという点であり、もうひとつは、ヨーロッパ列強による世界分割に日本もエチオピアも加わったということである。以前はアドワの戦いの意義としては、「アフリカ分割」期の例外としてエチオピアが独立を保持したことが強調されたが、エチオピアの脱亜(脱アフリカ)は、この面のみならず帝国主義の仲間入りをした面も見逃してはならない。具体的には、エチオピア帝国が東南部のオガデン地域を領有したのみならず、イタリアのエリトリア領有をはじめとするエチオピア帝国周辺部におけるヨーロッパ列強による線引きを承認したことは、きわめて重要な事実として記憶にとどめられるべきである。<『新版世界各国史10 アフリカ史』2009 山川出版社 p.434 岡倉登志執筆分>
 日本の勝利はアジア諸国のみならず、ロシアに支配されていたポーランドの民族意識を刺激したように、アドワの勝利もアフリカ諸地域に影響を及ぼした。しかし、ここでエチオピア自身が帝国主義の仲間入りしていると指摘されているように、日本もすでに朝鮮植民地化を進め、イギリス・フランスの帝国主義アジア分割に参画している。
 ただし私見では、アドワの戦いと日露戦争の共通点として「植民地化を回避できた」という点をあげることには疑問がある。アドワの勝利は確かにその時点での植民地化を回避することはできた。しかし日露戦争はどうだっただろうか。その勝敗が日本の植民地化に直接結びついていたであろうか。仮に日本が負けた場合、その時点で日本がロシアの植民地となることまでは考えられず、朝鮮半島・中国東北地方での主導権を失うことにはなっただろう。なによりもアドワの戦いがエチオピア領内に侵入したイタリア軍と戦ったのに対し、日露戦争は日本軍が朝鮮・中国に出かけていって戦争をした。その違いは大きい。アドワの戦いと日露戦争を単に同じような戦争とみるのは正しくない。

イタリアの好戦主義

 イタリア王国は統一後も社会改革の遅れやバチカンとの対立などがあり、産業も未発展であったことから、19世紀末に首相となったクリスピは、強力な政治権力の樹立と国民の愛国心の高揚をはかってリソルジメントの栄光を再現しようとした。その好戦主義といわれる外交にはフランスへの敵意をあおってドイツ、オーストリアとの三国同盟の結成(1882年)に動いたことと、北アフリカ・エチオピアへの侵略があげられる。しかし「クリスピの激しい執念は悲惨な結果を招いた。1896年3月1日、アドゥアの戦いで、5000人のイタリア軍兵士が戦死し、イタリアはいかなる植民地主義国家も経験しなかったほどの無残な敗北を味わったのである。」<ダカン『イタリアの歴史』2002 ケンブリッジ版世界各国史 p.236>

その後のエチオピア侵略

 エチオピアはこの勝利によって独立を維持し、国際的に承認されてエチオピア帝国となった。その後はフランス・イタリア・イギリス三国が鉄道敷設権の分割協定を結ぶに止まり、エチオピアの独立は維持された。しかしファシスト党のムッソリーニ政権下のイタリアは、1935~36年に再びエチオピアに軍事進出し、エチオピア併合(第2次イタリア=エチオピア戦争)を強行した。