エチオピア侵攻(併合)/イタリア=エチオピア戦争(第2次)
1935年、ムッソリーニ独裁下のイタリアがエチオピアを侵略、国際連盟が経済制裁を実行したが効果があがらず、1936年に併合を強行した。
1935年10月、ムッソリーニ独裁政権下のイタリアによって行われた、エチオピアに対する侵略行為。ムッソリーニはドイツの動向をめぐってヨーロッパが激しく動揺している隙を狙って、エチオピア侵略を開始した。また、1931年に日本が満州事変で満州侵略を開始し、満州国樹立が既成事実化していたことを意識していたと思われる。
イタリアは、1896年にもエチオピア侵攻を行っており、その第1次イタリア=エチオピア戦争では、アドワの戦いで敗れて撃退されていたので、今回は第2次イタリア=エチオピア戦争とも言われている。
ムッソリーニは「エチオピアの命運は尽き、ついにイタリアは、帝国を獲得した。それは文明の帝国であり、エチオピアの全人民に対して人道的な帝国である」と演説して併合を誇示した。無差別爆撃と毒ガス使用を、文明と人道の名によって正当化した。国際連盟理事会がイタリア軍を非難したのは、エチオピア人に対する無差別爆撃と毒ガス使用ではなく、赤十字救援隊が爆撃されたことに対するものであった。<荒井信一『空爆の歴史』2008 岩波新書 p.34-37>
イタリアは、1896年にもエチオピア侵攻を行っており、その第1次イタリア=エチオピア戦争では、アドワの戦いで敗れて撃退されていたので、今回は第2次イタリア=エチオピア戦争とも言われている。
国際連盟、最初の経済封鎖を実施
国際連盟では理事会がイタリアの行為を連盟規約第16条違反であるとただちに認め、経済制裁に踏み切り、イタリアに対し、武器の禁輸、信用供与の停止、イタリア商人の輸入禁止、アルミニウムやゴムなどの軍需物資の禁輸などが決定された。これは国際連盟が、集団安全保障の原則に基づいて、違反国への経済制裁が初めて実施されたという点で画期的であった。 しかし、その制裁は決定的な要素を欠いていた。すなわち、イタリアの侵略行動を支えていた石油が禁輸対象から除外されたていた。国際連盟加盟の多くの中小国は石油禁輸を主張したのに対し、イギリス・フランスが極めて消極的であったためである。実は、イギリス・フランスは、イタリアのエチオピア侵略を事実上認め、ムッソリーニを懐柔する腹であった。そのような中で経済制裁は実効力の無い内容となりるというが、イタリアは侵略を続け、翌1936年に首都アジスアベバを占領し、5月にムッソリーニがエチオピアの併合を宣言した。<木畑洋一『国際体制の展開』世界史リブレット54 1997 山川出版社 p.42-44>イタリア、国際連盟脱退
イタリアはドイツのバルカン半島侵出を警戒してイギリス・フランスとともにストレーザ戦線を形成していたが、このエチオピア侵略を強行したことは、イギリスの不信を買い、英仏との共同戦線を離脱することを決意、1936年に始まったスペイン戦争でフランコ政権を支援すしたことからナチス=ドイツとの提携を強めていくこととなる。こうしてナチス=ドイツとの提携が強まったことでイタリアは、国際連盟の経済制裁などの措置を不服として1937年12月、脱退を通告した。国際連盟の形骸化
エジプト・スーダンの南部に位置するエチオピアへのイタリアの侵出に対し、イギリスは自国の権益を守るために地中海艦隊を増強すると同時に、イタリアが国際連盟規約に違反して加盟国の一つに対して侵略行為に出たとして提訴し、それを受けて国際連盟は経済制裁を決定した。しかし、周辺諸国のいくつかは参加せず、制裁は実行力がなかった。またイギリスも侵略行為に対して戦争を賭して阻止する決意はなく、それを知ったムッソリーニは輸出禁止品目の中に石油が含まれるのは戦争を発生させる敵対行為だと宣言したため、国際連盟は禁輸品から石油を除外してしまった。このように国際連盟規約違反を国際連盟自身が阻止できず、1931年の日本軍の満州事変以降の侵略行為とともに国際連盟の無力さ、形骸化を白日の下にさらす結果となった。<岡義武『国際政治史』1955 再刊 2009 岩波現代文庫 p.230>イタリアによる空爆と毒ガス使用
エチオピア人は首都アジスアベバが占領されて、イタリアが併合を宣言した後も抵抗を続け、独立を回復しようとした。それは1940年にイギリスがエチオピアを再占領するまで続いた。この1935年10月~40年までの5年間をエチオピア戦争ともいう。この間、エチオピア側の死者73万人(40万人説もある)、そのうち30万が餓死者、3万5千人が強制収容所で死んだ。イタリアは戦争中も占領中も、エチオピア各地で航空機による無差別爆撃と毒ガス攻撃を行い、容赦なく住民を殺した。1936年1月、エチオピア皇帝ハイレ=セラシエはみずから国際連盟でイタリア軍の毒ガス攻撃の残虐さを告発している。ムッソリーニは「エチオピアの命運は尽き、ついにイタリアは、帝国を獲得した。それは文明の帝国であり、エチオピアの全人民に対して人道的な帝国である」と演説して併合を誇示した。無差別爆撃と毒ガス使用を、文明と人道の名によって正当化した。国際連盟理事会がイタリア軍を非難したのは、エチオピア人に対する無差別爆撃と毒ガス使用ではなく、赤十字救援隊が爆撃されたことに対するものであった。<荒井信一『空爆の歴史』2008 岩波新書 p.34-37>
Episode 第4次ポエニ戦争?
(引用)1935年10月のエチオピアへの宣戦布告は、ローマ帝国再生への一歩とされた。ムッソリーニの考えでは、この戦争はイタリアの覇権を地中海――彼は地中海をローマ帝国時代の呼び名にならってマレ・ノストルム、つまり「われらの海」と呼ぶことにこだわっていた――に確立する「第4次ポエニ戦争」にほかならなかった。エチオピアの首都アディス・アベバは、1936年の5月初旬、イタリア軍の手に落ちた。これは勝利宣言に値する快挙だと見なされたが、しかしじつはその裏で国民に伏せられていた事実があった。エチオピアの大半はまだ征服されておらず、毒ガスが使用され、そしてさらなる抵抗の芽を摘むために、ムッソリーニは「テロと敵対派絶滅を組織的に進める政策」を認可していたのだ。だが彼は5月9日の午後10時半、自分の執務室にしていたローマ中心部のヴェネツィア宮のバルコニーから、歓喜する群衆に向かって演説をした。イタリアは、ついに独自の帝国を手にいれた……エチオピアの全人民のための、文明と慈愛の帝国である。これはローマの伝統にのっとっている。ローマは征服後、人々を自分たちの運命に引き入れていた……この確かな希望を胸に、おお兵士たちよ、軍旗を、剣を、そして精神を高く掲げよう。1500年の時を経て、この宿命のローマの丘に再生した帝国を迎えようではないか。
<クリストファー・ケリー/藤井崇訳『一冊でわかるローマ帝国』2010 岩波書店 p.166-167>