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リベリア

1847年に独立したアフリカの黒人共和国。解放奴隷となったアメリカの黒人がアフリカに戻り建国、近代アフリカで最も早い独立国となった。第二次世界大戦後は経済の不振、アメリカ系とアフリカ系の黒人間の内戦が続いたが、アメリカ系の支配層は一掃され、2003年に安定を回復した。

リベリア GoogleMap

アメリカ合衆国で黒人奴隷制に対する廃止運動がたかまるなかで、奴隷身分から解放された黒人が故郷のアフリカに戻ろうという運動が起こった。彼らは、アメリカ植民協会を設立、1821年にアフリカ西海岸に入植を開始した。

アフリカ最初の黒人近代国家

 新たに移住したアメリカ系黒人は、開拓を進めながら部族社会を形成していた現地の在来の黒人を政治的・経済的に従属させ、支配者階級を形成していった。彼らは1847年7月26日に黒人の国家としてアフリカ最初の独立国家(共和政)の独立を宣言した。国名は Liberty からとってリベリアとし、首都のモンロビアは移住開始時のアメリカ大統領モンローの名前に由来する。
リベリア国旗

リベリアの国旗

 独立と同時に用いられた国旗は、アメリカの星条旗に似たデザインとなっており、11本の紅白のストライプは独立宣言に署名した11人を、青地に星一つはアフリカでの唯一の独立国であることを示していた。
 黒人共和国リベリアの独立は、アメリカ合衆国における1863年のリンカンによる奴隷解放宣言よりも16年早く、解放奴隷はこの地に自由な独立国家を建設するという理想を実現させた。

黒人間の新たな差別

 リベリアが建国されたのは、アフリカ西岸が大きく湾曲するギニア湾に面するギニア地方であり、黒人奴隷貿易時代は穀物海岸といわれていた。入植した解放奴隷の黒人は、現地人をアボリジニー(原住民の意味)と呼んで差別し、そこに新たな差別が生じた。
 20世紀の帝国主義の時代になると周辺をイギリス、フランスなどに奪われ、苦難が続いたが、アメリカの支援で独立を維持した。この時期にアフリカで独立を維持できたのは、北西のエチオピアと、西海岸のこのリベリアだけであった。リベリアのアメリカ系黒人政府は、アメリカのタイヤ会社と結び、広大なゴム園を経営させ、在来のアフリカ系黒人は商品作物ゴムの生産に従事した。

アフリカ系黒人の権力掌握

 第二次世界大戦後、支配階級を構成したアメリカ系の解放奴隷の子孫の黒人と、アフリカ系黒人との経済格差は拡大し、後者の不満が次第に高まって、関係は次第に悪化していった。都市の商人や学生が蜂起したのに対して警察が発砲したことから、1980年に軍によるクーデタが発生、彼らは大統領以下のアメリカ系黒人支配者層を殺害し、その影響力を一掃して権力を奪った。現在は解放奴隷の子孫はおよそ8%となっている。しかしその指導者ドウ将軍も殺害され、1989年以来いくつもの武装勢力が争う内戦が始まり、2003年まで続いた。この内乱で人口400万のうち20万人以上の犠牲者が出た。
黒人女性大統領サーリーフ 2006年にはアフリカ系で初の女性大統領としてエレン=ジョンソン=サーリーフが選挙で選ばれて内戦からの復興が図られ、2012年には再選された。またリーマ=ロバータ=ボウィは非暴力の草の根抵抗運動「リベリア女性による平和のための大衆運動」を組織してリベリアの平和的な復興に努め、2011年のノーベル平和賞はサーリーフ大統領とボウィの二人に与えられた。<宮本正興/松田素二編『新書アフリカ史 改訂新版』2018 講談社新書 p.325>