黒人奴隷/黒人奴隷制度/奴隷貿易/大西洋奴隷貿易
15世紀末に始まったスペイン・ポルトガルのアメリカ新大陸植民地経営では、当初インディオの奴隷労働が行われたが、急激に人口が減少したため、16世紀からアフリカ大陸の黒人奴隷を供給する大西洋奴隷貿易が始まった。その後大量の黒人がラテンアメリカ地域に送られ、現地に定着した。この地域の諸国独立後もプランテーションにおける黒人奴隷労働が続いたが、19世紀に奴隷制批判が始まり、アメリカ合衆国での南北戦争の過程で黒人奴隷は解放された。しかしその後、黒人に対する人種差別はなくならず、その後も差別反対の運動が続いた。
- (1)大西洋黒人奴隷貿易の開始
- (2)イスラーム世界での黒人奴隷貿易
- (3)西欧諸国による黒人奴隷貿易
- (4)アメリカの黒人奴隷制度
- (5)アメリカの奴隷解放
大西洋奴隷貿易 大西洋奴隷貿易は、主としてアフリカ西岸(ギニア湾沿岸)から多くの黒人が捕らえられて奴隷として西インド諸島・中南米に送られた。奴隷貿易はヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸を結ぶ三角貿易の一辺をなし、中間航路と言われたが、奴隷船の苛酷な環境によって多くの黒人が洋上で命を落とし、またしばしば暴動が起こった。
プランテーション 黒人奴隷は安上がりな奴隷労働力として鉱山、砂糖・綿花・ゴム・コーヒーなどのプランテーション(大農園)で酷使され、次々と供給された。まずブラジルでは砂糖プランテーションが作られ、後に西インド諸島(ハイチ、キューバ島など)に広がった。北米大陸ではヴァージニアのタバコや藍のプランテーションが作られ、南部全域では綿花プランテーションが広がった。それらはアメリカ合衆国が独立してからも黒人奴隷に依存しながら発展した。
黒人奴隷の解放 19世紀に入るとイギリスで黒人奴隷貿易と奴隷制度に対する人道的な立場からの批判が強まり、ウィルバーフォースらの運動によってまず奴隷貿易禁止(1807年)が実現し、さらに奴隷制度廃止(1833年)そのものが実現した。アメリカ合衆国では、19世紀中頃に、北部工業地帯では黒人を賃金労働力として購買力をつけて経済を発展させようという志向が強まり、南部綿花プランテーションでの黒人奴隷労働維持の志向との対立するようになり、奴隷制が一つの争点となって南北戦争(1861~65年)となった。その過程でリンカン大統領が奴隷解放宣言(1863年1月)を行い、合衆国における黒人奴隷解放は実現した。その前後にラテンアメリカ諸国でも次々と黒人奴隷は解放された。最も遅れたのがブラジルで、1888年だった。
人種差別 しかし、アメリカ合衆国に於いては黒人には経済的に自立する基盤が与えられなかったため、貧困が続き、そのため白人の差別感情はなくならず、その後も真の黒人解放、平等化をめざす運動が主として黒人の側から起こった。ようやく第二次世界大戦後の公民権運動によって黒人差別は法的に否定されたが、その後もアメリカの人種問題はなおも深刻な国内問題として続いている。
※世界史上の奴隷・奴隷制についてはギリシアの奴隷制、ローマの奴隷制、中国の奴隷/奴婢を参照。
参考 奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー
世界史の中で、黒人奴隷貿易の歴史が厳然とあり、現代世界にも深い爪痕を残している。そしてそれに対する奴隷制廃止運動も永く続いた。結論を先取りして言えば、現在の国際社会では、1998年にユネスコが8月23日を「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー」として世界的に奴隷貿易の加害と被害の歴史を思い出す日として設定しているところまで来ている。この日は1791年に、ハイチの黒人奴隷が初めて反乱に立ち上がった日である。奴隷制・奴隷貿易が廃止された現在の焦点は、なおも続く人種差別をなくすこと、かつて黒人奴隷貿易を行っていた西欧諸国がその賠償をどのように行うか、に移っている。 → UNESCO International day for Remembarance of the Slave Trade and Its Abolition(1)大西洋黒人奴隷貿易の開始
ポルトガルの黒人奴隷貿易
サハラ以南のアフリカ黒人を奴隷として拉致し商品化する行為を、組織的・国家的にはじめたのは15世紀のポルトガルであった。1441年にはエンリケ航海王子の派遣した艦隊はモロッコ南部のリオ・デ・オロで上陸、初めてアフリカ人を捉え、奴隷として本国に連れ帰った。こうしてポルトガル人による黒人奴隷貿易が開始され、1448年には西アフリカ海岸における最初のヨーロッパ人の居留地としてアルギム要塞が建設された。それ以後、ポルトガル人はギニア地方で黒人を捉え、本国に連れ帰ってヨーロッパ各地に金や象牙、胡椒とともに奴隷として供給した。ポルトガルのアフリカ西岸進出の動機は金であったが、黒人奴隷の利益が大きいことが判明した。そこでポルトガルは将来、スペインとの競合を予測して、1455年にローマ教皇から新たに「発見」し、これから「発見」する非キリスト教世界を征服し、交易を独占する権利を認められた。これはローマ教皇が黒人奴隷を承認したことであり、大きな転機であった。
ジョアン2世(在位1481~95年)の時、1482年にはギニア地方(現在のガーナなど)の金と奴隷貿易拠点としてサン=ジョルジェ=ダ=ミナに砦を築いた。これが後のエルミナ要塞である。
15世紀中頃から16世紀中頃までのアフリカにおける黒人奴隷貿易はポルトガルの独壇場であった。しかし、奴隷はリスボンに送られヨーロッパ内に売られるか、アフリカか大西洋上のマディラ島の砂糖農園で使役されるかだった。つまりこの段階ではポルトガル以外の国は奴隷貿易に参入しておらず、また奴隷が送られるのは旧世界であり、新大陸の南北アメリカ大陸・西インド諸島にはまだ送られていなかった。
負の世界遺産 エルミナ要塞
アフリカ西岸のギニア地方の、現在のガーナ、かつて黄金海岸といわれた海岸に、ポルトガルが黒人奴隷貿易の最初の拠点として設けたサン=ジョルジェ=ダ=ミナ砦は、16世紀末にオランダに奪取され、エルミナ要塞と言われるようになった。その建物が現在も残されており、これは奴隷貿易という人類の負の遺産として、他の城塞群と共に世界遺産に登録されている。奴隷海岸 またかつて黄金海岸と言われた現在のガーナの東、現在トーゴ、ベナン、ナイジェリアの海岸は、かつて奴隷海岸と言われた。このあたりにあった黒人王国ダホメ王国(現在のベナンの地域)、ベニン王国(現在のナイジェリアの一部)が、内陸から捕獲してきた黒人をヨーロッパの奴隷商人に売り渡していた。17世紀にはポルトガルに代わってイギリスやフランスが進出し、奴隷交易で繁栄したので奴隷海岸と言われるようになった。
またギニア湾に浮かぶサン=トメ島(現在のサントメ=プリンシペ)はポルトガルの奴隷貿易の海上拠点として利用された。17世紀後半になると、ポルトガルはコンゴ川流域のコンゴ王国との間でも奴隷貿易をおこない、ルアンダ(現在のアンゴラの首都)からブラジルに向けて多数の黒人が奴隷として送られた。 → ポルトガルのアフリカ植民地支配
黒人奴隷制以前の新大陸
16世紀の初め、西インド諸島、中南米に進出したスペイン人入植地は、さまざまな作物の農園や鉱山が開かれていった。それらの労働力としてインディオがあてられ、始めは奴隷として使役したが効果が上がらず、エンコミエンダ制などの方式を採るようになった。しかしインディオが酷使されたことは変わらず、次第に人口が減少していった。すでに早く、1501年に宣教師ラス=カサスが、インディオの酷使による減少を防ぐための代替案としてアフリカの黒人を使用しようと提言したことがあったが、彼自身は後にその件を反省している。北アメリカ大陸に入植したスペイン人はインディアンの奴隷化を試み、同じく北米に入植したイギリス人、フランス人、オランダ人らもインディアンを強制的に働かせようとした。イギリス人入植地のヴァージニアのタバコ・プランテーションでは本国からの白人年季奉公人も労働力とされた。他にもポルトガル人が入植したブラジルでも始めはインディオ奴隷による砂糖プランテーションが作られた。
白人年季奉公人制度=実質的な「白人奴隷制度」
イギリス領の西インド諸島や北アメリカのプランテーションにおける労働力の主力は、黒人奴隷制が導入される17世紀中頃までは、白人年季奉公人であった。主力が黒人奴隷に移っても白人年季奉公人の制度は19世紀初頭まで存在した。年季奉公人はイギリス国内から買い主が渡航費用を負担してアメリカに渡り、一定期間強制的な労働に服さなければならない制度で、18世紀に黒人奴隷が大量に導入されるまでの植民地のプランテーションの労働力となった。彼らは本国の貧困層の白人であり、多くは移民として新大陸にわたったが、中には流刑とされたもの、買い主にだまされ拉致された者なども少なくなかった。彼らは年季が明ければ自由になれた点が黒人奴隷と異なるが、黒人奴隷制度がアメリカで導入される前に、白人奴隷制ともいうべき労働制度があったことは見逃すことができない。アメリカ植民地で黒人奴隷制度がすんなり受け入れられる前提には白人年季奉公人制度があったといえる。
新大陸への黒人奴隷貿易
これらの基本的に狩猟民であるインディオ、インディアン奴隷に農耕を強制するのは効率が悪く、またかれら自身も過酷な労働と白人のもたらした天然痘などの感染症によって急速に人口が減少し、全般的な労働力不足を補うために、スペイン領アメリカには1530年代から、ポルトガル領のブラジルには1570年代から本格的にアフリカの黒人奴隷が供給されるようになった。アシエント制の意味 スペインはスペイン植民地に黒人奴隷を供給する貿易商に対して、許可証としてアシエントを発行した。アシエントとは元来、国家の公益事業について王室が民間と取り交わす請負契約を意味した。16世紀に新大陸のスペイン領に奴隷を供給する必要が生じたが、1493年の教皇子午線でスペインとポルトガルで支配権を分割したとき、スペインはアフリカにたいする権利を放棄していたので、自ら黒人奴隷を供給できなかった。同時にスペイン人商人には黒人を現地で拉致し、奴隷として新大陸まで運ぶノウハウはなかったので、スペイン王室は他国の奴隷貿易請負業者に一定数の奴隷の供給の許可を与える代わりに、契約料と税金を納めさせて王室の収入とするようになった。その際の奴隷供給契約(許可状)をアシエントというようになった。
アシエントをめぐる競争 このスペインによって設けられた新大陸への奴隷供給契約制度であるアシエント制は、今後の大西洋奴隷貿易に重要な意味をもっていく。アシエント権は、黒人奴隷貿易というある意味では異常な形態の貿易を実行できる「お墨付き」の役割をもっていた。始めはアフリカに拠点をもっていたポルトガルが独占していたが、その利益が大きくなると共にオランダ、イギリス、フランスなどの冒険的商人もその権利を得ようと必死に争うようになり、その獲得が国家目的にもなっていくからである。 → 詳細はアシエントの項を参照。<布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.37-58>
17世紀以降の大西洋奴隷貿易
アシエント権は初めはポルトガル奴隷商人がを認められていたが、1640年頃から、アフリカ西岸のギニア湾には、オランダ、フランス、次いでイギリスが相次いで進出するようになり、ポルトガルの独占は次第に揺らいでいった。(引用)こうしてニグロ奴隷貿易は、17世紀の経済界でもっとも重要な部門の一つになっていた。16世紀の例に倣って、この貿易は各国政府から、アフリカ西岸で奴隷取り引きを行い、この取引きを守るために城砦を設け、西インド諸島への奴隷を移送、売却する独占的特権を賦与された特許会社という形態をとって実践された。自由貿易商(フリートレイダー)とか「もぐり商人」とか呼称された個人商人は排除されていたわけである。(以下各国の説明)<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 「資本主義と奴隷制」p.210>オランダ オランダはスペインからのオランダ独立戦争を戦い、1609年に実質的独立を果たした。すでに16世紀末にギニア海岸のポルトガル奴隷貿易の拠点エルミナ要塞を奪取しており、17世紀から本格的に大西洋奴隷貿易に参入してきた。1621年に奴隷貿易の特許会社としてオランダ西インド会社を設立して、西インド諸島だけでなくポルトガル領ブラジルに進出し、アフリカの奴隷を砂糖プランテーションに運び、砂糖を本国に持ち帰ることによって大きな利益を上げるようになった。1662年にオランダはアシエント権を獲得し奴隷をスペイン植民地に運ぶ権利を独占し、この時期、オランダは大西洋貿易の主役にのし上がったといえるが、その覇権は長続きせず、英蘭戦争で1674年に最終的に敗北したことによって、徐々に後退せざるを得なかくなり、その地位はイギリスに奪われていった。
フランス コルベールが1664年に奴隷貿易の独占権を与えてフランス西インド会社を設立して大西洋奴隷貿易に本格的に参加するようになった。次いで1673年には独占権はセネガル会社に移された。その進出地は17世紀の前半に西インド諸島の小アンティル諸島・グアドループなどに始まり、1740年代までにエスパニョーラ島の西半分をスペインから奪ってサンドマング(後のハイチ)を獲得して砂糖プランテーションを建設した。しかしフランスでは奴隷貿易への自由参加要求が強く、1674年には西インド貿易は自由化された。18世紀には、フランスの最大の奴隷貿易港ナントから、多くの奴隷貿易船がアフリカに向かった。ナントに次いで、ボルドーやル=アーブルなどが奴隷貿易で繁栄した。フランスの奴隷貿易船はアフリカ西岸のセネガル、ガンビアからギニア湾岸、さらにアンゴラ方面で奴隷を仕入れ、西インド諸島の砂糖プランテーションの労働力をして送り込んだ。その中で最も多い供給地がサンドマング(後のハイチ)で、1788年には白人2.8万人であるのに対し、黒人奴隷40.6万人だった。
イギリス イギリスはチャールズ2世が特許状を与え、1672年にロンドンに王立アフリカ会社が設立され、アフリカとアメリカ新大陸の間の奴隷貿易会社として発足した。王立アフリカ会社は王室が保護し、自ら参加さたことでわかるように王国にとって重視され、イギリス東インド会社と並ぶ当時最大の貿易会社であった。王立アフリカ会社は1673年から89年までの間に合計89,000人の奴隷を輸出(年平均5250人)した。いずれもギニア海岸から西インドのジャマイカなどに運ばれた。それに対してブリストルやリヴァプールの私貿易業者が闇で参入するようになったため、イギリス政府は1698年に議会で王立アフリカ会社の独占廃止法が成立し、1700年から10%の税を納めれば、誰でもイギリス国旗を立てて、黒人奴隷貿易に参入できるようになった。スペインのアシエント権(奴隷貿易許可状)は1701年にはフランスの手に移ったが、スペイン継承戦争後の1713年のユトレヒト条約でイギリスに譲渡され、イギリスが大西洋の黒人奴隷貿易(三角貿易)の利益を独占するようになる。<布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.48-52> → (3)イギリスによる黒人奴隷貿易
その他の国の黒人奴隷貿易 17世紀に黒人奴隷貿易に参入したのは上記三国だけではなかった。スウェーデンは黒人奴隷貿易の特許会社として1647年にギニア会社を創設した。デンマークでは1671年に西インド会社を設立して特許状を与え、王族も株主となり、1674年にはその活動範囲をギニアにまで拡げた。ブランデンブルク=プロイセンまでがブランデンブルク・アフリカ会社を設立し、1682年にはアフリカ西岸に最初の貿易拠点を建設した。
(引用)1450年前後にポルトガルの独占事業として始まった奴隷貿易は、こうして17世紀末までには飛び入り自由の大乱戦模様となっていたのである。<エリック=ウィリアムズ『同上書』 p.210>
参考 西欧諸国にとっての奴隷貿易
エリック=ウィリアムズの同書は、17世紀の黒人奴隷貿易が「西方世界の力であり腱である」と言う言葉とともに、次のような人物の言葉を伝えている。- イギリスのチャールズ2世 奴隷貿易こそは「かくも多くの労働力を持ち込み、わが王国を富ましめる……有益な貿易」でる。
- フランスのコルベール 奴隷貿易ほど利点の多い商業は世界中に二つとあるまい。
- ベンジャミン=ラウレと言う人物が1685年にプロイセン選帝侯に語ったことば「周知のように、奴隷貿易こそはスペイン人が新世界から絞り出した富の源泉でありましたし、スペイン人に奴隷を供給する術(すべ)を心得た者なら誰でも、あのスペイン人の富の分け前に与れるのです。……オランダ西インド会社がこの奴隷貿易で富裕化したことを知らぬ者はありますまい」
- サー=ドルビー=トマス 「イギリスの快楽、栄光、栄華は他のいかなる商品にもまして砂糖によってもたらされたのだ。この点では毛織物さえ及ぶものではない」
奴隷制度と奴隷の反抗
(引用)奴隷制度は基本的に恐怖政治である。奴隷は、些細な犯罪のためにも鞭打たれ、鉄鎖につながれた。1度には、つまり一つの犯罪に対しては、39回までしか鞭打ってはならない、と決められていたことは事実である。しかし、この規則は遵守するよりは破る方が名誉と考えられたほどのものであったし、どんな意味にもせよこの規則に奴隷の保護なり、奴隷所有主の絶対権力の制限なりを読み取る人はよほどの詭弁家といわねばなるまい。植民地によっては、奴隷殺しは現地通貨で100ポンド、イギリスの通貨にして約57ポンドの罰金刑に処せられた。……しかし、それが何を意味していたかは、次に引用する部分だけからもあきらかである。奴隷がこうした苦境から逃れる方法は四つあった。
「……奴隷を殺した自由人を死罪に問うようなことは、この島(アンティグア)の社会体制や政体に合わないし、それはあたかも奴隷に白人への抵抗を奨励するような仕儀にもなろうからである。奴隷殺害のかどで自由人が死罪に問われるなどということは、カリブ海のいかなる島においても、いまだかつて聞いたことがない。」<エリック=ウィリアムズ『同上書』 p.299-300>
- 第一のそれは自殺である。これは強力な武器で、奴隷船の船上でも砂糖プランテーションに着いてからでも、奴隷商人をやっつけるために、意識的に行われた。
- 第二の逃げ道は、プランテーションからの逃亡であった。バルバドスでは30日以上逃亡した奴隷は片足を切断するという規定があった。この罰則の厳しさは逃亡がいかに多かったかを物語っている。
- 第三の道は、1772年から、イギリス領西インドの黒人奴隷はイギリスやアイルランドに連れてこられたときは自由人となるという裁判の判決が出たことであった。しかしこの判決は植民地では意味をもたなかった。
- 第四の、そして最も知られた、奴隷制度に対する奴隷自身による回答が「叛乱」であった。奴隷反乱は奴隷貿易船の中で始まる。ナント港所属の奴隷貿易船では15隻に1隻の割合で反乱が起こり、1775年のディアナ号は積荷であった244人の黒人奴隷に乗っ取られた。プランテーションでも17世紀にたびたび奴隷反乱が起きている。サンドマング(ハイチ)でも18世紀の大反乱の予行演習が1679年に起こっている。ジャマイカでは逃亡奴隷はマルーンといわれ、その中には奥地で自立し、抵抗を続け、シマロンといわれる武装集団を造った者もいる。