奴隷解放宣言
1863年1月1日、南北戦争のさなか、アメリカ大統領リンカンが公布し、黒人奴隷の解放を宣言した。前年の9月に予備宣言されていたものをここで実施し、戦争目的を奴隷解放にあることを示し、国際世論の支持をうけ、戦争を北軍有利に転換させた。
アメリカ合衆国の第16代大統領リンカンは、南北戦争の激戦が続く中、まず1862年9月に奴隷解放予備宣言を出し、翌63年1月1日までに南部諸州が連邦に復帰しなければ、その日を期して黒人奴隷を解放すると宣言した。しかし南部諸州の動きはなかったので、予定通り1863年1月1日、奴隷解放宣言を発表した。
これによって南北戦争の目的は、南部の分離阻止の戦いから、黒人奴隷の解放というアメリカン・デモクラシー擁護と社会変革の為への戦いへと性格を転換させた。
奴隷解放宣言は、1865年1月、アメリカ合衆国憲法修正第13条として連邦議会で可決され、南北戦争の終結と、リンカンの暗殺後の同年12月に4分の3の州が批准したことによって発効した。戦争による多大の犠牲を出しながら、北部の勝利に終わったことによって、建国以来の大問題であったアメリカの黒人奴隷制問題は一応の決着を見ることとなり、アメリカの奴隷制は廃止された。しかし、黒人に対する差別は依然として南部を中心に根強く残り、戦後に南部諸州が復興する過程で新たなかたちでの黒人差別が復活し、より明確な平等を実現させる黒人への公民権の付与は20世紀を通じてアメリカの課題となっていく。 → 公民権運動 公民権法
(前略)本日、1863年1月1日現在、合衆国に対して反乱の状態にある人民のいる州と州内部の特定の地域を以下のように指令し、かつ指定する。(以下、反乱州の具体名を列挙)
(中略)(合衆国大統領の陸海軍総司令官としての)権限と目的のために、以上に特定した州および州内部の地域において奴隷として所有されているすべての人びとは、自由であり、また以後自由であるべきことを、私はここに命令し宣言する。また、合衆国陸海軍を統括する合衆国政府が、上記の人びとの自由を承認しかつそれを保護することを命令し宣言する。そして私は、このようにして解放を宣言された人びとに、自己防衛のために避けられない場合を除いてすべての暴力行為を回避することを命令する。また、機会が与えられたあるゆる場合において、適切な賃金を得て忠実に労働することを勧告する。さらに私は、それらの人びとのなかで適切な条件を備えている者を合衆国の軍務に受けいれ、要塞守備隊、陣地、駐屯地やその他の場所、そしてわが軍のあらゆる艦船に就役させることを宣言しかつ告知する。
真に正義の行為であると信じられ、かつ憲法によっても軍事上の必要措置として正当化されるこの布告に対して、私は人類の思慮深い支持と全能の神の御加護を心から祈るものである。<『史料が語るアメリカ 1584-1988』1989 有斐閣 p.107 長田豊臣訳>
ここでは宣言の対象は、「反乱州」と名指しされた南部諸州だけであり、北部の自由州と、南部の奴隷州であるが中立を宣言していた4州(デラウェア、メリーランド、ミズーリ、ケンタッキー)などは除外されていた。しかし、この宣言によって、アメリカ大陸の植民と同時に始まり、アメリカ社会の基本的性格を、デモクラシーの伝統とともに規定していたアメリカの黒人奴隷制は廃止され、300万以上の黒人が奴隷身分から解放されることになった。
奴隷解放宣言の国際的反応 自由貿易主義全盛であったイギリス(パーマーストン内閣)は、南北戦争で北部が保護貿易を主張してイギリスからの工業製品輸入を制限することを主張し、南部はイギリスとの自由貿易で綿花など農作物を輸出し、工業製品を輸入することを主張していたのだから、産業資本家は当然、南部を支持し、政府もそれに動かされていた。それに対して、リンカンが奴隷解放宣言を出したことは、イギリスの市民、労働者が人道的な奴隷解放を目指す北軍の戦いを支援すべきであるという声が強まり、政府も大義名分のある北部を支持せざるを得なくなった。また、当時フランスはナポレオン3世が、南北戦争に乗じてメキシコ出兵を実行しており、さらにマクシミリアンを皇帝に据えるためには、南北戦争が長期化することを歓迎した。
奴隷解放宣言は、1865年1月、アメリカ合衆国憲法修正第13条として連邦議会で可決され、南北戦争の終結と、リンカンの暗殺後の同年12月に4分の3の州が批准したことによって発効した。戦争による多大の犠牲を出しながら、北部の勝利に終わったことによって、建国以来の大問題であったアメリカの黒人奴隷制問題は一応の決着を見ることとなり、アメリカの奴隷制は廃止された。しかし、黒人に対する差別は依然として南部を中心に根強く残り、戦後に南部諸州が復興する過程で新たなかたちでの黒人差別が復活し、より明確な平等を実現させる黒人への公民権の付与は20世紀を通じてアメリカの課題となっていく。 → 公民権運動 公民権法
資料 奴隷解放宣言(部分)
1863年1月1日、奴隷解放宣言(本宣言) Emancipation Proclamation の文面は以下の通りである。(前略)本日、1863年1月1日現在、合衆国に対して反乱の状態にある人民のいる州と州内部の特定の地域を以下のように指令し、かつ指定する。(以下、反乱州の具体名を列挙)
(中略)(合衆国大統領の陸海軍総司令官としての)権限と目的のために、以上に特定した州および州内部の地域において奴隷として所有されているすべての人びとは、自由であり、また以後自由であるべきことを、私はここに命令し宣言する。また、合衆国陸海軍を統括する合衆国政府が、上記の人びとの自由を承認しかつそれを保護することを命令し宣言する。そして私は、このようにして解放を宣言された人びとに、自己防衛のために避けられない場合を除いてすべての暴力行為を回避することを命令する。また、機会が与えられたあるゆる場合において、適切な賃金を得て忠実に労働することを勧告する。さらに私は、それらの人びとのなかで適切な条件を備えている者を合衆国の軍務に受けいれ、要塞守備隊、陣地、駐屯地やその他の場所、そしてわが軍のあらゆる艦船に就役させることを宣言しかつ告知する。
真に正義の行為であると信じられ、かつ憲法によっても軍事上の必要措置として正当化されるこの布告に対して、私は人類の思慮深い支持と全能の神の御加護を心から祈るものである。<『史料が語るアメリカ 1584-1988』1989 有斐閣 p.107 長田豊臣訳>
ここでは宣言の対象は、「反乱州」と名指しされた南部諸州だけであり、北部の自由州と、南部の奴隷州であるが中立を宣言していた4州(デラウェア、メリーランド、ミズーリ、ケンタッキー)などは除外されていた。しかし、この宣言によって、アメリカ大陸の植民と同時に始まり、アメリカ社会の基本的性格を、デモクラシーの伝統とともに規定していたアメリカの黒人奴隷制は廃止され、300万以上の黒人が奴隷身分から解放されることになった。
リンカンの奴隷制反対論
しかし、1860年に大統領となったリンカンが、最初から奴隷制度反対論者だったとは言えない。彼は、当初は南部の現状では黒人奴隷の存在はやむを得ないが、その拡大には反対する、というものであった。また大統領には州の奴隷制度を廃止する権限はないと考えていた。しかし、南北戦争が進行する中で、連邦の維持のためには北軍の勝利が必要であり、そのためには国際的な支援を得るためにも、黒人奴隷の解放を宣言せざるを得なくなったのであった。奴隷解放宣言の国際的反応 自由貿易主義全盛であったイギリス(パーマーストン内閣)は、南北戦争で北部が保護貿易を主張してイギリスからの工業製品輸入を制限することを主張し、南部はイギリスとの自由貿易で綿花など農作物を輸出し、工業製品を輸入することを主張していたのだから、産業資本家は当然、南部を支持し、政府もそれに動かされていた。それに対して、リンカンが奴隷解放宣言を出したことは、イギリスの市民、労働者が人道的な奴隷解放を目指す北軍の戦いを支援すべきであるという声が強まり、政府も大義名分のある北部を支持せざるを得なくなった。また、当時フランスはナポレオン3世が、南北戦争に乗じてメキシコ出兵を実行しており、さらにマクシミリアンを皇帝に据えるためには、南北戦争が長期化することを歓迎した。