ゴム
熱帯雨林原産のゴムの木の樹液を原料にして加工する。西インド諸島、南アメリカ大陸のゴムの木はイギリスによってマレー半島に持ち込まれプランテーションで生産されるようになり、タイヤなどさまざまな工業製品が作られている。近代産業に不可欠な資源として第二次世界大戦では争奪の対象となった。
ブラジルでのゴム採取
15世紀末、コロンブスが西インド諸島に到達したとき、インディオが使っていたゴムのボールを持ち帰ったのが、ヨーロッパでゴムが知られる契機となった。防水にすぐれ、弾力があるなどの特性を生かしたゴムの製品が様々な用途に利用されるようになったのは19世紀からであり、急激に需要が伸びたのは19世紀末に、自動車の空気入りタイヤとして利用されるようになってからであった。
天然ゴムは、現在は東南アジアで主に生産されているが、本来は東南アジアでは自生していなかった。原産地はブラジルのアマゾン川流域であり、18世紀までは他の地域では栽培されていなかったものを、イギリスの植物学者がゴムの種子を持ち出して育て、その苗をイギリス植民地であったマレー半島などにもたらして栽培が始まったものである。マレー半島の栽培ゴムが、南米ブラジルの自然採取ゴムに対して市場競争力を持つようになるのは20世紀に入ってからであった。
19世紀末、自動車のタイヤ用としてゴムの需要が急速に増大したとき、新たな供給源となったのが中央アフリカのコンゴ自由国だった。これはベルギー国王のレオポルド2世の個人所有の領土で、現地の黒人から人頭税として集められたもので、その日人道的な強制労働は国際的な非難を浴び、1908年にベルギー領コンゴに転換した。
マレー半島のゴム生産はその地を植民地支配していたイギリスがプランテーションで生産して独占することとなった。そのため、ドイツとアメリカは天然ゴムではなく、合成ゴムの発明に力を注がなければならなかった。まずドイツで合成ゴムが作られ、それがナチス=ドイツの軍需工業を支えた。アメリカも第二次世界大戦中に合成ゴム製造に力を入れ、天然ゴムへの依存度合いを少なくすることに努力した。現在は合成ゴムがかなりの割合を占めるようになったが、一部製品には天然ゴムだけが用いられるなど、その価値は下がっていない。
ゴムの世界史
ゴムは天然資源であり、自然に自生した樹木の一種類であるが、人類の歴史と深い関わりを持っている。特に20世紀の自動車の普及に伴うゴム需要の急増は、ゴム生産の形態を大きく変えた。また合成ゴムの発明は戦争と深く結びついており、その点でもゴムは歴史との関わりをもっており、「世界史を変えた植物」の一つと言うこともできる興味深い植物である。
インディオとゴム
1493年、コロンブスが二度目の航海で西インド諸島のエスパニョーラ島(現在のハイチ)に立ち寄ったとき、その部下が、現住民が木の「やに」で作ったボールでゲームをしているのに気づいた。このボールは、糸を巻いて作るスペインのボールより大きかったが、もっと軽くて、もっと高く弾んだ。コロンブスは「まるで生き物のようだ」と驚いたという。これがヨーロッパ人とゴムのボールの初めての出会いだった。コロンブスはこのボールを持ち帰ったが、その奇妙な性質を利用する術を当時のヨーロッパでは、だれ一人、知恵が浮かばなかった。<サトクリフ『エピソード科学史Ⅳ』1973 現代教養文庫 p.110/酒井伸雄『文明を変えた植物たち』2011 NHKブックス p.62>ゴムの木は暑く湿った気候で育つ樹木で、幹を傷つけると乳白色の樹液が出る。新大陸のインディオはすでにマヤ文明やアステカ文明から、野生のゴムの木は「涙を流す木」といわれ、樹液は「カフチェ」といわれていて、その利用法が知られていた。ゴムの木は後にブラジルのパラ港から輸出されたのでパラゴムノキといわれるようになり、その樹液は現在ではラテックスと言われている。
新大陸の先住民は、ゴムをボール遊びに使っていただけなく、彼らはゴムの木から採取したばかりの白い樹液を手や足に塗って、火にかざして乾かすことを何回か繰り返し、薄い皮のように固めたゴムの手袋や靴も作っていた。他にも水漏れしない水筒やコップ、布地にゴム引きの防水布なども使っていた。<酒井伸雄『文明を変えた植物たち』p.62>
新大陸の人びとは、ゴムには弾力があり、ボールゲームには最適であることを知っており、薄いゴムが皮膚からの菌の侵入を防ぐことを無意識に利用していたのだ。つまり、ボールゲームとコンドームというゴムの利用法の原型はすでに新大陸にあったわけだ。<ビル・ローズ/柴田譲治訳『図説世界史を変えた50の植物』p.98~ パラゴムノキ>
ゴムの商業利用の始まり
ラテックスは放置すると固まって生ゴムになってしまうので、ヨーロッパまでの長い船旅ではそのまま運べなかったこと、生ゴムそのものも温度が高くなると軟らかくなってベトベトし、寒くなると硬くなって弾性が無くなってしまうという特質があり、ヨーロッパでは商業的価値はなかなか認められなかった。<酒井『同上書』p.63>16世紀に鉛筆があらわれると、それで書かれた文字は始めはパンで消されていたが、1770年、イギリスの化学者プリーストリー(アンモニアの発見者でもある)は生ゴムの塊でこすると文字がきれいに消えることを発見し、1772年に生ゴムを角砂糖大にカットして売り出し、ヨーロッパ中に広がった。生ゴムはその最初の用途がイギリスで消しゴムとして始まったため、ラバー(rubber=こするもの)と呼ばれるようになった。
1820年代にスコットランドのマッキントッシュという人が、ラテックスをコールオイルで溶かし、布地にしみこませて防水布を作ることに成功した。これは馬車の御者の雨の日の仕事を楽にしたため大成功となって商品化された。このゴム引きの防水布で作った外套は夏になるとベトベトし、冬になるとゴワゴワして使い勝手は悪かったが、今でもイギリスで mackintosh 略して mac といえば、ハンバーガー店やパソコンではなく、ゴム引き外とう(アメリカで言うレインコート)のことだ。<こうじや信三『天然ゴムの歴史』2013 京都大学学術出版会 p.11>
グッドイヤー、ゴムの加硫法の発見
1838年、アメリカ人のグッドイヤーは、偶然にゴムと硫黄をテレピン油で溶かすことによって、暑さや寒さで変化せず、一定の弾性を保つことを発見した。このように処理されたゴムは「加硫されたゴム」と言われ、ゴムの応用範囲を一挙に広げることとなった。なお、現在の世界三大タイヤメーカーの一つ、グッドイヤーは直接の関係はなく、彼の死後の1898年に創業され、尊敬を込めてその名を社名にしたそうです。加硫ゴムが発明されたことで、原料の生ゴムの需要が急激に増加した。当時生ゴムの唯一の産地だったブラジルでは、ジャングルに自生するゴムの木が、無計画な樹液の採取によって次々と枯渇していった。イギリスは、世界に広がる植民地でゴムの木を栽培しようとして、ロンドンの王立キュー植物園でゴムの木を栽培し、その種子を使おうと考えたが、ブラジルはゴムの木の種子の輸出を認めていなかった。
Episode 盗まれたゴムの種子
イギリス政府からブラジルのゴムの木の種を手にいれるという密命を与えられたヘンリー=ウィッカムは、カヌーでアマゾン川をさかのぼり、多数のインディオを雇ってゴムの木の種を集めた。荷造りした種を船に積み込み、パラ港から出港するにはブラジルの役人の許可がいる。検査にやってきた役人に対して、ウィッカムはこの荷はイギリス国王が王立植物園に植えるため特別に注文したもので、急いで運ばないと枯れてしまうからすぐに出航したいと申し出た。同席したイギリス領事も役人を「閣下」と呼んで持ち上げると、役人は検査なしに出航することを認めた。後にこの話は「盗まれたゴムの種子」として面白く語られるようになったが、うぃっかむに付いてくわしい調査をしたこうじや信三さんは、「盗まれた」というのはあたらない、といっている。<こうじや信三『前掲書』 p.101>ゴム栽培、イギリス領に広がる
こうして1876年6月、7万個の種子がキュー植物園に運ばれ、すぐ温室の中に蒔かれた。発芽したのはわずか約3%にすぎなかったが、8月には約1900本の苗木が成長し、当時発明された成育箱(ウォード・ケース)に入れられ、植物学者がつきそってイギリス領セイロン(現在のスリランカ)に運ばれ、翌年にはその一部がシンガポールその他の東南アジアのイギリス植民地に運ばれた。ウィッカムが「盗み出した」ゴムの木は、植えられてから5年目にラテックスを産出し、20世紀初めにはマレー半島などに広大なゴムのプランテーションが確立した。ウィッカムには十分な褒賞が与えられ、1911年にはゴムノキ栽培に関する業績に対してナイトに叙せられた。<サトクリフ『エピソード科学史Ⅳ』p.115-119>
空気入りのゴムタイヤの登場
天然ゴムの生産の中心がブラジルからマレー半島に移っていくのと並行して、ゴムの需要が急速に増大した。それはゴムが車輪に取りつけるタイヤとして利用されるようになったことが大きい。<以下は、酒井伸雄『文明を変えた植物たち』2011 NHKブックス p.68-74 による>早くも1845年に、スコットランドのトムソンが、馬車の車輪に取りつける「空気入りゴムタイヤ」を発明し、その特許を取ったが、価格がたかったことと装着に手間がかかったことから定着しなかった。そのころ、自転車がすでに登場していた。諸説あるが、最初の自転車は1817年ドイツ人のカール=ドライス男爵が、地面を足で蹴り、ハンドルで舵取りする二輪車を考案したと言われている。60年代に前輪にペダルを付けて漕ぐようになったが、前輪を大きくしなければならず不安定だった。70年代にはゴムを車輪に取りつけるようになったが、まだ空気入りは考案されていなかった。80年代にチェーンで車輪を回転させる方法が生まれ、前輪を大きくする必要が無くなって、自転車の普及が始まった。しかしまだ硬いゴムだけの車輪では乗り心地は良くなく、運転も不安定だった。
Episode ダンロップ、空気入りゴムタイヤを発明
スコットランド人の獣医師であったダンロップは、10歳になる息子から「町の中を自転車で走り回るのは苦痛だ」と聞かされて、その改良に乗り出し、1888年に「空気入りタイヤ」の特許を取った。それは、ゴムと布で中空なチューブを作り車輪に装着する、というもので、空気を入れたチューブを車輪の外周に固定する方法を実用化した。翌年の自転車レースでダンロップの発明したタイヤを採用した選手が優勝、ただちにダンロップのタイヤ革命はイギリス中に知れわたった。このときレースに敗れたクロス三兄弟の父親は、敗北を事業に結びつけることに成功した。翌年、クロスはダンロップに出資し、タイヤ製造会社を設立、1900年にダンロップ・ラバー・カンパニーに社名を変更、それが現在のダンロップ社へと発展した。ミッシュラン兄弟、自動車用タイヤを発明
1885~86年にかけて、ドイツのベンツやダイムラーによってガソリンエンジンを搭載した四輪自動車が作られたが、最初の自動車用タイヤは、馬車と同じで空気入りでないタイヤ(ソリッドタイヤ)だったため、高速で走ると振動で車体がバラバラになりかねない状態になっていた。そのため、自転車で大成功を収めていた空気入りゴムタイヤの応用が研究されたが、重い車体を支えることができないというのが最大の問題だった。最初に空気入りタイヤを自動車に取りつけるのに成功したのが、フランスのアンドレとエドアールのミシュラン兄弟だった。1895年、世界で二回目の自動車レースがパリ-ボルドー間往復で開催されたとき、ミシュラン兄弟はプジョー社の車体に空気入りタイヤを装着したエクレール号て参加した。エクレール号はゴールインするまでに22回もパンクしてそのたびタイヤを交換したため完走車19台中の12位だったが、途中の最高速度は時速61kmを出し、優勝車の平均速度24kmを大幅に縮めた。それからわずか数年、20世紀が始まる頃には自動車のタイヤはすべて空気入りタイヤに切り替わってしまった。車社会を変えた黒いタイヤ
空気入りタイヤの残された課題は、いかに耐摩耗性を高めるかにかかってきた。1900年、イギリスのゴム会社シルバータウン社の技師はタイヤを黒に着色するためカーボン・ブラックを練り込んだところ、その黒いタイヤの耐摩耗性はそれまでの天然ゴムだけで作ったクリーム色のタイヤに較べ、一挙に10倍にも高まった。この天然ガスを燃やして出る「すす」であるカーボン・ブラックを天然ゴムで「補強」することで、タイヤの走行距離は従来の10倍の数万キロに伸び、現在の車社会を支えているタイヤの誕生となった。(現在目にするタイヤのほとんどが黒いのは、カーボン・ブラックを補強材として使っているからである。)アマゾンのゴム生産の衰退
天然ゴムを含んでいる植物はいろいろあり、ゴムノキにもインド原産のインドゴム(観葉植物としてよく見かける)や、コロンブスが見た西インド諸島のパナマゴムなどもある。しかしゴムの採取に最も適していたのはブラジル原産のパラゴムノキといわれる植物で、そこから採取される生ゴムが最良の質とされている。19世紀までの生ゴムはすべてアマゾン川流域で生産され、ブラジルが最大の産出国となり、河口のパナ港から1000kmもさかのぼるマナウスはその集積地、ゴム取り引きの中心地として繁栄した。川に沿った平地のパラゴムノキは、乱暴な樹液の採取によってどんどん枯死してしまい、しだいにジャングルの中に点在する木からとるしかなくなり、インディオ労働者には一人150本の採取がノルマとして課せられたため、一人で一日に30kmも歩かなければならなかった。そのような苛酷な労働によって、1900年から11年までの間に4000トンのラテックスを採集するため、3万人の先住民労働者が命を落としたと伝えられる。これには世界中からも非難の声が巻き起こり、1911年を境にブラジルのゴム輸出量は急速に減少した。マレー半島のゴム生産
ウィッカムが「盗み出した」種子から育ったゴムの木は、東南アジアにもたらされ、瞬く間に広がった。マレー半島(イギリス領マラヤ)では1895年にセランゴールで最初のゴム園が開設されたが、スズとコーヒー農園が主であったのでゴム生産はすぐには増えなかった。しかし、自動車のタイヤの需要が生まれて、1910年にロンドンとニューヨークで史上最高値で取り引きされると、ゴム栽培に切り替える農園主が続出した。原生林も次々にゴム=プランテーションに姿を変え、ブラジルを抜いて1922年には98%にあたる100万トン以上を占めた。つまり、イギリス領マラヤを植民地支配していたイギリスが世界の天然ゴムを独占していたのである。1929年からの世界恐慌はマレー半島のゴムに大きな打撃を与え、1941年からは日本軍の占領によって打撃を受けたが、第二次大戦後はイギリス領から独立したマレーシア連邦でその重要な生産品として復活した。マレーシアは天然ゴムの生産の世界一位が続いたが、次第に工業化が進んで一次産品の比率が低下し、1990年からはタイが第一位となり、翌年にはインドネシアにも抜かれ現在では世界第三位となっている。Episode フォードの失敗
アメリカの自動車王フォードは自動車のタイヤの原料天然ゴムをイギリスが独占していることが面白くなかった。そこでフォードは、1928年、アマゾンの奥地に800万平方kmの農園を開き、パラゴムノキを栽培して生ゴムを自社で生産することにした。タパジョス川渓谷のボアヴィスタに開かれたゴム・プランテーションは「フォードランディア」と名付けられ、年間200万台の自動車に必要なゴムを賄えるゴムの木が植えられた。パラゴムノキの原産地に大資本を投下して農園を開くのだから、だれの目にも成功間違いないと思われた。フォードランディアには7000人の住み、そのうち2000名のプランテーション労働者にはアメリカ的生活様式―アメリカ風の食事やスクエアダンスまで―が押しつけられた。結局、フォードは1945年にこの事業から撤退した。現地の労働者がアメリカ的生活様式の押しつけに反発したのが理由とされたが、実際にフォードの野望を打ち砕いたのは、パラゴムノキに蔓延した葉枯れ病(土着のカビが原因とされる)だった。<ビル・ローズ/柴田譲治訳『図説世界史を変えた50の植物』p.103>コンゴ自由国の『赤いゴム』
19世紀末にゴムが自動車のタイヤとして使われるようになったことで爆発的に需要が増大し、世界的なゴム不足がおこった。そこに目をつけたのがベルギー国王のレオポルド2世だった。彼は1885年にベルリン会議の場でコンゴ盆地一帯をコンゴ自由国として個人支配することが認められるとまず象牙を輸出用商品として独占した。乱獲で象牙を増産することは出来ず、それに代わるものが必要となったとき、ジャングルにゴムの木が自生していることを知り、黒人に採集させ、それを人頭税として無償で取り立てるシステムを作り上げた。ところがアフリカのゴムの木は南米原産と違い蔓性なのでジャングルの高木に巻きつき、原液の採取は難しかった。おまけに畑に植えることも出来ず、現地の黒人の労働は過酷をきわめることになった。決められた量のゴム原液を納められなかった黒人は厳しく処罰され、反抗すると手首を切られるという非人道的な植民地経営が行われ、集められたゴムは国王と契約した特殊会社が輸出を行って巨利を得ていた。
コンゴ自由国は外国人の入国を厳しく制限したので、ジャングルの闇の中で繰り広げられていた苛酷な搾取は世界には知られなかったが、特殊会社に雇われたイギリス人の船乗りモレルという人物が、自分が実際に見聞した実態――ゴムを集めるために何日もジャングルを歩き、定められた量を集めないと激しい暴行を受けているアフリカ現地人の悲劇――を『赤いゴム』という題の本にして1906年にイギリスで発表した。これによって「コンゴ自由国」で文明化を施しているというレオポルド2世国王の弁明とは真逆な実態が暴露されることとなった。レオポルド2世に対する非難は世界に広がり、ベルギー政府もそれまでの無関係な姿勢をとることが出来なくなり、1908年についにコンゴ自由国を廃止、ベルギー政府が管轄するベルギー領コンゴに転換することとなった。『赤いゴム』は、「コンゴ自由国」という特異な例におけるスキャンダルを告発したものだったが、帝国主義列強による植民地支配の矛盾をあきらかにした一冊となった。<『新書アフリカ史・改訂新版』2018 講談社現代新書 p.366 などによる>
ドイツが合成ゴムを発明
20世紀に入ると、ゴムはタイヤだけでなく、電気を通さないという特性から、絶縁材料として用いられ、電気工業や兵器産業にとってもなくてはならないものとなっていった。天然ゴムをイギリスに独占されていたドイツとアメリカは、その代用品として合成ゴムをつくり出す必要があり、研究が始まった。特に1914年に第一次世界大戦が始まると、戦車、飛行機、輸送用トラックなどでゴムの需要が高まったが、ドイツはイギリス艦隊に海上を封鎖され天然ゴムの供給が途絶えてしまった。こうしてドイツにおける合成ゴムの研究は加速され、まず発酵させたジャガイモを化学反応させメチルゴムをつくる方法が実用化されたが、絶縁材料としては使えたものの、タイヤとしては強度が不足していたため次第につくられなくなった。1933年に石炭と石灰を原料としたブタジェンにナトリウムを加えてつくるブナ(Buna)が開発され、ヒトラーナチスのもとで開発が進み、ヒトラーは「ドイツでは軍事用のゴムに不足はあり得ない」と豪語、43年には生産量が年間11万トンに達した。アメリカの合成ゴム生産
アメリカは第二次世界大戦開戦まではイギリス領からの天然ゴムと、ドイツからの合成ゴムの輸入でまかなっていたが、1942年に日本軍がマレー半島を占領し、ドイツとも開戦したためゴムの輸入がストップした。F=ローズヴェルト大統領は、合成ゴムの開発を国管理で進めるという大統領令を布告し、実行に移した。ごく短期間に開発が進められ、大戦末期の45年には生産量が82万トンに達した。戦争終結の10年後の1955年に合成ゴム生産は民間に移され、その技術と共に世界各国に輸出されるようになった。2009年現在、天然ゴムの生産量は960万トンであるのに対し、合成ゴムの生産は1200万トンに達している。しかし、高度1万メートル以上の上空での低温と、着陸時の高温の両方に耐える必要のある飛行機用タイヤは依然として天然ゴムでしか作れず、1970年代以降のエイズ予防で需要が急増したコンドームは、ピンホールや使用中の破損は許されないので天然ゴムでしか作ることができない。
Episode ゴムの世界史とタイヤ・メーカー
ゴムの世界史を見ていくと、グッドイヤー、ダンロップ、ミシュランといった現代の有名タイヤ・メーカーの名前が次々と出てくる。それぞれ、タイヤだけでなく、ゴム関連事業で多角経営を行っている。自動車とそれを支えるタイヤの原料となったゴムが、19世紀末以来の現代資本主義で欠くことのできない原料だったことが判る。ミシュランに到っては、今や『ミシュラン・ガイド』の方も有名になっている。これは自動車の売り上げが上がればタイヤの売り上げも上がると考えたミシュランが、1900年に自動車旅行用のガイドブックとして発売したものに始まる。弟のエドアールは地図制作の経験もあり、道路地図とともにホテルやガソリンスタンドの案内を兼ねたガイドブックによって、自動車旅行者を増やそうとしたのが最初だった。ミシュランと言えば、世界最大のタイヤ・メーカーであったが、2005年にそれを抜いて世界一になったのが日本のブリヂストンである。よく知られたように、久留米の足袋屋だった石橋正二郎が1930年に創業、ゴム底の地下足袋で大当たりし、タイヤ製造に転じた会社で、石橋のストンブリッジでは語呂が悪いのでひっくりかえしてブリヂストンを社名にした。そして運動靴(アサヒ靴)や自転車、ゴルフボールなどを手がけて今や世界一のゴム関連会社であり、国内でも日産などとも結んだ財閥に成長している。
Episode 学校に配られたゴムまり
日本は天然ゴムに依存していたので、中国大陸侵出に対するアメリカ・イギリスの経済封鎖が厳しくなると、特にゴム製品は底をつき、子供たちのゴム紐やゴムまり、輪ゴムまで出回らなくなった。そんな時代に国民学校の小学生だったある女性の1941(昭和16)年2学期の回顧談である。(引用)当時、日本は物資不足で、アメリカやイギリスなどの経済封鎖が厳しくなって、殊にゴム製品は底をついていました。そんな中、わたしたちはとにかく弾むマリが欲しくてね。本物のゴムマリが欲しくて欲しくて、一段飛びの紐にする輪ゴムも欲しくて欲しくて。しかたがないので裏山へ行って、あちこちから苔をむしってきて日に干したり、里芋の茎を干したりして乾かし、それにぼろ布をクルクル巻いてマリの代用品をつくっていました。もちろん、うまく弾みませんから、つくとちゃんと跳ね返ってきて、手のひらに反発するゴムマリの感触に恋いこがれてました。なんと、そんなある日、学校の教室に夢のようなゴムマリが五個ほど配給になったんです。それをだれがもらうか、くじ引きをすることになって。これは1941年7月28日、日本軍が南部仏印進駐を行った後のことで、日本政府はそれによって物資不足を解消したことを宣伝するため、全国の小学校にゴムマリを配給したのだった。「仏印からの贈物」が各国民学校に配給され、こどもたちが「ゴムマリ、どうも有り難う」と喜んだという記事が同年12月23日付け読売新聞でも報道された。しかし、栗原さんの回顧談は次のように結ばれている。
わたしは当たらなかったけども、一大事件でしたね。戦争に勝つとゴムマリが来るっていうんですから。愛国少女でなくとも、感激の「バンザイ!バンザイ!」よね。そして先生がこういったの。「もうこれからはゴムマリなんかいくらでも手に入る」って。<アーサー・ビナード『知らなかったぼくらの戦争』2017 小学館 p.12-13 「マリは蹴りたしマリはなし」栗原澪子さんの回想>
(引用)「南方を手に入れたからには日本は大国になったんだ」って。あのゴムマリは巧みにそういう宣伝効果を狙ったのよね。でもその後、ゴムマリが届くことは二度とありませんでした。<アーサー・ビナード『前掲書』栗原澪子さんの回想 p.18>