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アボリジニー

オーストラリア大陸の先住民の総称とされる。ただし普通名詞で原住民を意味し、特定の民族名ではない。彼らは多くの部族に分かれ、独自の狩猟・採集文化を有したが18世紀末のイギリス人入植者によって圧迫・征服され、多くが殺害されたため激減した。現在、その人権の復権が図られている。

 アボリジニー(アボリジニ) aborigine とは、一般にオーストラリアの先住民を意味しているが英語で「原住民」を意味する普通名詞であり、民族名、人種名ではない。また歴史的には差別的、侮蔑的なニュアンスを伴う呼称であったが、現在ではそうした意味合いは薄れ、オーストラリアの先住民を意味するようになり、彼ら自身も自らをそう呼んでいる。身体的特徴はチョコレート色の皮膚、中ぐらいの身長(平均約165cm)、長い四肢、発達した眉稜などである。

オーストラリア大陸への人類の移住

 ホモ=サピエンスは約5万年前頃、人類の拡散の過程で、東南アジアから島嶼を伝わって渡来し、オーストラリア大陸に広がっていった。現在のアボリジニー諸部族はニューギニア島と大陸が地続きだった時期にわたってきたオーストラロイド人種と考えられるが、260ほどに分かれているその言語がどの語族に入るかはまだわかっていない。南太平洋一帯に広がっていてニュージーランドの先住民であるマオリ人を含むオーストロネシア語族とは異なっている。<海部陽介『人類のたどってきた道』2005 NHKブックス p.190-216>
 アボリジニーの文化は打製石器を主に使い、土器を造らず、狩猟・採集の文化(旧石器文化の段階)を続けていた。農耕や牧畜を行わず、また文字も使用しなかったが、その狩猟技術はブーメランや投槍器など独特の道具を発達させ、高度なものがあった。また多数の岩絵を残しており、独自のアボリジニー美術をとして残されている。

狩猟により種の絶滅

 オーストラリアでは、氷河期の気候変化とその動物への悪影響が軽微であったにもかかわらず、過去10万年間に大型動物の86%が絶滅している。この理由としてもっとも考えられるのは、過去4万年間にわたるアボリジニ諸族による狩猟圧である。たとえ直接大量に殺されなかったにせよ、人間による生息地の破壊や肉食獣が依存している小型草食動物の減少の結果として生態系が破壊されれば、大型動物の絶滅は容易に起こりうる。オーストラリアと同じような大量殺戮は南アメリカでも大型動物の80%、北アメリカでは73%が絶滅した。<クライブ・ポンティング/石弘之他訳『緑の世界史上』1994 朝日選書 朝日新聞社 p.61>

イギリス人との遭遇

 オランダ人のタスマンによるタスマニア島への到達、大陸であることの判明などに続き、イギリス人クックの航海によって大陸東海岸が知られるようになったことを受けて、1788年にイギリス人が現在のシドニーに上陸、入植を開始した。当時のアボリジニー人口は正確にはわからないが、約30万(多く見積もり100万人とする説もある)を数えたと推定されている。
 イギリス人の入植以来、アボリジニーから土地を奪いその地は無主の土地(所有者のいない土地)であるとして入植したイギリス人受刑者などに与えていった。アボリジニーには土地私有の概念がなく、共同体共有の狩猟の場であったが、部族の長はガラス玉とビーズを引き換えにイギリス人の入植者を許したという。彼らのキャンプは次々と奥地に追いやれていった。次第に活動の場を奪われたり、殺害されるなどのを圧迫され、急速に人口を減少させ、1901年のオーストラリア連邦が成立した時期には約6万になったといわれている。現在では都市とその周辺では白人に同化した人びともいるが、多くは内陸の一部の居留地に追いやられた。オーストラリア連邦政府の白豪主義の一環として、1950年~60年代も厳しい隔離・差別政策が続いたが、1967年の憲法改正で人権が認められ、その保護、自立がすすんでおり、人口も約40万人に回復している。

イギリス人によるアボリジニ虐殺

 1788年1月26日、イギリスの囚人がはじめてオーストラリアに到着した。イギリスはオーストラリア大陸を流刑植民地として囚人を労力として開発を開始、それが内陸に広がるにつれて、アボリジニーは最初に追い出され、抵抗すれば虐殺された。特にタスマニア島ではアボリジニー殺害が徹底され、1876年にはタスマニア島のアボリジニーは絶滅した。「アボリジニー狩り」とも言われた残虐行為はニューサウスウェールズやヴィクトリア州でも行われ、そのためアボリジニー人口は激減し、オーストラリア北部のノーザンテリトリーや西オーストラリア州の一部に残存するだけとなった。さらに彼らの土地や森林は、イギリス人の金鉱開発や羊毛生産のための牧場とするために奪われていっただけでなく、彼らは労働力として酷使されたことや、イギリス人の持ち込んだ伝染病に罹ったことで死んでいった。
(引用)オーストラリアは長い間、囚人の流刑地以上には考えられていなかった。にもかかわらず、五〇〇余りのアボリジ二部族は一掃されようとしていた。アボリジニ=数千年に及ぶ独立状態の中で定住家屋も持たなければ農業も発達させなかった、まったく原始的な人々というレッテルを貼ることが、一部の白人入植者の利害と一致していた(アフリカ人の果たした文化的な功績を否定したのと同様に)。たしかに、砂漠地域でアボリジニが遊牧と採集生活をしていたことは事実である(それ以外の方法では暮らしていけなかった)。しかし、もっと肥沃な地域では、彼らも村を作り、作物を育て、牧畜を営んでいた。<クリス・ブレイジャ/伊藤茂訳『世界史の瞬間』2004 青土社 p.169>

アボリジニー同化政策

 イギリス植民地オーストラリアは1901年にイギリス帝国の白人自治領の一つとして独立しオーストラリア連邦となったが、その憲法ではアボリジニーの権利を認めておらず、保護の対象としてしか見ていなかった。オーストラリア連邦政府は、「白豪主義」を唱えて白人優位を守りながら、アボリジニーに対しては同化政策を進めた。連邦政府と各州政府はそれぞれにアボリジニー政策を進めたが、基本は白人と原住民=アボリジニーを区別し、原住民に対しては「保護と管理」を加える、というものであり、各地に原住民保護区が造られていった。しかし、アボリジニーを管理するだけでなく、彼らの独自の言語や文化を奪い、白人と同じ文化を強要して白人と同化させる姿勢が強くなっていった。
「盗まれた世代」 アボリジニ同化政策の中で、とくに大きな影響力をもったのは、アボリジニーの子供たちを親から強制的に隔離して白人の施設(多くはキリスト教教会の関係)に収容して養育するという親子強制隔離政策であった。これはアボリジニーの子どもたちをその伝統文化から切り離して白人文化を強要して「文明化」する政策で、特に1951年からで60年代に実施された。そのころ親から隔離された子どもたちが成人し、彼らは「盗まれた世代」といわれている。
(引用)…1936年に成立した原住民管理法は、苛酷な生活条件の下で生きてきたアボリジニの「より良い保護と管理」を目的としたものでしたが、実際はこの法によって「原住民」とされた人々は、法的に「市民」とは明らかに差別された生活を送ることになったのでした。たとえば、この法によって、政府は「原住民」を住んでいる所から強制的に「原住民居留地(Native Reserve)」や特別施設は移動させる権利や、キャンプしている「原住民」を強制立ち退きさせる権利をもちました。……「原住民」は結婚することさえ許可が必要で、自由に旅をする権利もありませんでした。酒を飲んではいけない。ホテルに立ち入ってはいけない……など、たくさんの禁止条項が課せられましたが、アボリジニの文化を破壊した最も大きな原因となったは、親ではなくアボリジニ主任保護管(もちろん白人が就任します)が「原住民の子ども」の親権をもつと定めたことでした。
 この法により、役人はアボリジニの子どもたちを、親の意志に関係なく自由に親の胸からとりあげ、公共施設へ強制収容する権利をもったのです。これが悪名高い「連れ去り(take away)」(子どもと親の強制隔離)の始まりでした。「原住民」の親に子どもを育てさせると、子どもも下等な「原住民」になってしまう。とくに文明化できる可能性をもった、白人の血を少しでもひく混血の子どもの場合は、そのような悲劇から救いだし、白人になれるように教育をしなければならない――こういう考えのもとで、多くのアボリジニの子どもたちが、強制的に孤児にされたのでした(現在これらの子どもたちを「盗まれた世代」(stolen generation)と呼び、離れ離れになった家族の再会を手助けする運動が行われています)。
 連れ去られ、キリスト教の施設(ミッション)や公共の施設(セツルメント)などで暮らした子どもたちは、白人になるよう教え込まれます。彼らの言葉を話すことを禁じられ、英語を話すよう強要され、よきキリスト教徒になるよう強制されたのです。<上橋菜穂子『隣のアボリジニ』初刊は2000 筑摩書房、再刊2010 ちくま文庫 p.137-139 >

アボリジニの権利獲得

 大戦後の世界各地の植民地の独立、かつての植民地支配の見直しが進む中で、アボリジニーの中にも民族的な自覚が生まれ、白人優位の歴史観が改められるようになった。隔離政策も60年代まで続いたが、次第にその非人道性は批判されるようになった。 1967年に国民投票によって認められた憲法改正によってアボリジニを国民として認められることとなり、各州でも次第に「原住民」として区別されるのではなく白人と平等な市民として扱われるようになった。反面、アボリジニにも白人と同じ賃金とされたことで、かえって多くのアボリジニが解雇され、仕事を失うということもふえた。一部には失業保険をもらい仕事もせず酒浸りになるアボリジニも増え、それがまた偏見を生むという悪循環が起こった。
 アボリジニの社会的地位を安定させる上で重要な画期が1992年の連邦最高裁が出した判決で、それは先住オーストラリア人の伝統的所有権を認知する者であった。この判決で初めてアボリジニには先住民として土地に対する古代から継承する法的権利画認められ、翌1993年に「先住権原法(Native Title Act)」が成立、一部であるがアボリジニ・コミュニティに自らの土地の公式な所有者となることができた。こうしてアボリジニは「先住民」としての諸権利が認められるようになった。

親子強制隔離政策への非難強まる

 1995~95年、オーストラリア連邦政府による同化政策の一環としての強制隔離制度は厳しい批判にさらされることになった。強制隔離とされたアボリジニのその後の調査が行われ、その報告書が出されたことで政府の責任が問われることになった。
(引用)1960年代後半までの数十年もの間、アボリジニと(とりわけ)アボリジニの「血」を部分的に引く子どもたちが、同化政策の一環として、国家によって家族から計画的に引き離されていたのだ。こうした子どもたちは施設に預けられた。この施設の多くはしばしば、宣教師が運営するものである。そこで、子供たちは家事労働者、または農業労働者になるべく訓練を受けさせられた。彼ら彼女らの多くは、強制的に家族から奪われたことで、永続的な精神的損傷を受けた。こうした「奪われた世代(stolen generation)」に関する公的調査の最終報告書が、1997年に公表される。この報告書は、政府の政策への激しい非難とその責任を明記したもので、被害者たちに対する政府の公式謝罪と補償を勧告した。<保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』所収の、テッサ・モーリス・スズキ「ミノ・ホカリとの対話」初刊2004 御茶の水書房 再刊2018 岩波現代文庫 p.324-325 >
 しかし、当時のハワード首相(保守党)は「盗まれた世代」に対する国家としての公式謝罪を拒否、先住民政策を後退させ、先住民を特別待遇しないという姿勢を採った。その政権下で2000年にシドニー・オリンピックが開催され、女子400mでオーストラリアのキャシー・フリーマンが優勝した。彼女はアボリジニであり、しかも「盗まれた世代」の一人という境遇であり、レースで勝った後、オーストラリア国旗とアボリジニの旗の両方を掲げてグランドを一周し、世界中にアボリジニの存在をアピールした。

オーストラリア政府の謝罪

 ハワード政権に代わって政権を握ったラッド首相(労働党)は、2008年、オーストラリア政府として初めて「盗まれた世代」に対する謝罪を行った。ラッド首相は過去の政権が先住民に対して行った隔離政策について、「誇りある人々と文化が受けた侮辱を申し訳なく思う」とする謝罪文を下院で読み上げ、全会一致で採択された。
 アボリジニー復権の動きはまだ途上であり、完全な平等化はまだ実現していない。そんな中、2021年1月にはオーストラリア連邦の歌詞の一部、 We are young and free の young が one に変更になったというニュースがあった。young には入植後の白人が作った若い国、という意味が込められているので、白人もアボリジニも一緒、という意味で one に改められた。最近ではアボリジニの言葉で国歌を歌うことも多くなっているという。 → オーストラリア連邦
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書籍案内

クリス・ブレイジャ
/伊藤茂訳
『世界史の瞬間』
2004 青土社

上橋菜穂子
『隣のアボリジニ』
2010 ちくま文庫

1990年代に西オーストラリアで都市生活を送るアボリジニと暮らした体験を持つ、文化人類学者(現在はファンタジー作家として人気)の報告。現代のアボリジニの一面を瑞々しく伝える。

保苅実
『ラディカル・オーラル・ヒストリー』
オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践
2014 岩波現代文庫

1996~2001年にノーザンテリトリーで暮らしながらアボリジニの語るかれら自身の歴史認識と対峙した若き研究者が33歳での死の直前、2004年に発表した本の文庫版。我々が語る西欧化された歴史とあまりに違う彼らの歴史認識(歴史実践)をどう受け止めるべきなのか。現代の歴史および歴史学(世界史)の意味を問う、問題の書。

DVD案内

『裸足の1500マイル』
Rabbit Proof Fence
2002 オーストラリア映画

1931年の西オーストラリア。政府の「親子強制隔離政策」によって母親から奪われた三人のアボリジニ少女が、収容施設から脱走、砂漠を1500マイル、90日間にわたって追跡人を振り切って逃げた。母親に会いたい一心からだった。実話に基づいた映画。「盗まれた世代」の実際と、アボリジニの置かれた環境が良く描かれている。