カーゾン/カーゾン線
ベンガル分割令を進めたイギリスのインド総督。後にイギリス外相となり、第一次大戦後のロシア・ポーランド休戦ラインの策定にあたる。
1899~1904年と1904年末~1905年末までの2度、インド総督となったイギリス人。帝国主義の開幕の時期に当たり、彼はインドを基地にして中東と中国におけるロシア帝国の南下政策を防ぐための広域防衛体制を整えるのが任務であった。そのためインド統治の方策である分割統治を進め、1905年にベンガル分割令を制定したが、それはインド人の強い反発を呼び覚まし、インド植民地の民族運動に火をつけることとなった。
つまり、カーゾンは世界史上、二つの分割線に関わったわけである。そのうち、インドの「カーゾン線」においては激しい反発を受けて不首尾に終わり、ソ連・ポーランド間の「カーゾン線」は(策定されたときにではないが)対立を止揚する働きをして成功したといえる。
第一次世界大戦時のイギリス外相となる
カーゾンはインド総督(1898~1905)を務めた後、1908年に上院議員となり、王璽尚書、枢密院議長を歴任した後、外相となった。1920年、第一次世界大戦後、ロシア社会主義政権とポーランド間の戦争が続く中で、カーゾンは休戦ラインを提案した。それをカーゾン線という。実際の休戦はそのラインよりも東よりで設定されたが、後の第二次世界大戦後のソ連・ポーランドの国境線とされた。 → ポーランドつまり、カーゾンは世界史上、二つの分割線に関わったわけである。そのうち、インドの「カーゾン線」においては激しい反発を受けて不首尾に終わり、ソ連・ポーランド間の「カーゾン線」は(策定されたときにではないが)対立を止揚する働きをして成功したといえる。