イギリスのインド植民地支配/インドの民族運動(19世紀後半)
19世紀後半以降、イギリスはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる体制の下、帝国主義支配をインドで貫徹し、インドは工業製品の市場・綿花などの原料の供給地として大英帝国を支えた。同時にインド人の民族運動も活発になり、イギリスは一部妥協を図ったが、抑圧体制はかわらず、自治・独立を求める運動が活発になった。
インド帝国の成立
イギリスは18世紀中頃からインド植民地支配を推し進め、1857年のインド大反乱を翌年までに武力で鎮圧してほぼその体制を完成させた。1858年8月に「インド統治改善法」(一般にこれをインド統治法という)によって東インド会社による間接支配から、直接支配に転換して国王の代理が副王(総督)として統治することとなった。その体制は、同年11月1日のヴィクトリア女王の宣言によって明確にされた。スエズ運河の獲得 1970年代にはイギリス資本主義は、帝国主義段階へと移っていった。そのなかで、植民地インドの重要性はさらに強まり、1875年、ディズレーリ内閣はスエズ運河株を買収した。スエズ運河を獲得して「インドへの道」を確保したイギリスは、さらに1877年1月にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることによってインド帝国を成立させ、イギリスによる直接的な植民地統治は名実ともにできあがった。
イギリスによるインド統治
イギリス国王がインド皇帝を兼ねるインド帝国では、どのような統治が行われたのであろうか。それ以前の東インド会社によるインド植民地支配の段階から、道路など基盤の整備とともに、警察制度の整備と英語教育に力を入れた。特に教育は1835年より英語で行うこととし、官庁の文書もそれまでのペルシア語と各地方語の使用を停止し、すべて英語で作成することを命じた。役人になるためには英語が使えなければならないので、英語は急速に普及した。それまでインドには統一言語の発達が遅れていたことも、英語の普及の理由であった。またインド社会に残る、ヒンドゥー教信仰による嬰児殺し、幼児婚、寡婦の殉死(サティ)などを禁止する立法措置をとった。これらはキリスト教の布教と結びついていたが、必ずしもインド民衆には受け入れられなかった。またイギリスはインド統治にあたって、ヒンドゥーとイスラームの対立(コミュナリズム)を利用した。 → イギリスの分割統治
英語の公用語化 イギリスは1837年には、公用語をペルシア語から英語に切り替えた。インドの官僚機構に採用されるには英語は必須となり、高等文官の採用試験は1922年まではイギリスでのみ実施された。イギリスがペルシア語を禁止したのはそれがムガル帝国の公用語だったからであるが、ムガル帝国時代のインドの上流社会では北インドの口語(ヒンドゥスターニー語)にアラビア語、ペルシア語の語彙が取り入れて生まれたウルドゥー語(アラビア文字で表記される)はイギリス統治下でも行政や法廷用語としては保持されていた。それに対して、ヒンドゥー教徒の中に言語純化運動が興り、ウルドゥー語からイスラーム地域由来の語彙を取り除き、インド固有のデーヴァナーガリー文字で表記されるヒンディー語が作られると、イギリスは1900年にインド北西部の地域で、ウルドゥー語とヒンドゥー語の併用を認めるようになった。<粟屋利江『イギリス支配とインド社会』1998 世界史リブレット p.48>
帝国主義段階のインド支配
19世紀後半の帝国主義段階に入り、イギリスの植民地支配はさらに強化され、アフガニスタン、ビルマへの支配の拡大とともに、1853年4月にはボンベイとターネーを結んでアジア最初の鉄道を敷設し、インドの鉄道が綿花などを積み出す交通機関として出現した。このようなイギリスによる産品を独占して利益を上げ、それに反発するインド民衆を弾圧するための差別法を次々と制定した。たとえば、1878年の「土着語出版法」(インド人の出版、言論の弾圧で「箝口令」と言われた。)、「武器取締法」(インド人の武器所持を禁じる)などである。また1883年には司法上の差別をなくしインド人判事がイギリス人を裁けるようにした法案が、イギリス人団体の反対で廃案になった。
インドの反英闘争の始まり
これらの差別的な統治法は、イギリス植民地当局のインド人に対する蔑視の表れであるとして、激しい反対の声が起こり、1883年、バネルジーらが指導する全インド国民協議会が結成された。これが言論による反英闘争の最初の組織となった。背景には、イギリスがインド支配のために進めた英語教育を通して、西洋の人権思想や政治的な権利を知った知識人の中に、インド社会の変革の必要を感じてヒンドゥー教改革運動が起こってきたことがあげられる。イギリスのインド支配強化とそれに対する反発
イギリスは全インド国民協議会に対抗して対英協調組織として1885年にはインド国民会議を開催した。会議に参加した人びとは1885年、国民会議派を結成して政治勢力となった。当初はインドの知識人、上層階級の立場でイギリスの協力者に留まっていたが、1905年のベンガル分割令に対する反対運動から、イギリスの思惑を超えて反英闘争の中心組織に転化し、1906年12月、カルカッタで大会を開き、四大綱領をその闘争の理念として掲げるに至った。 その四大綱領とは英貨排斥・スワデーシ・スワラージ・民族教育であり、以後、インドの民族運動の掲げる要求となった。イギリスはそのようなヒンドゥー教徒の動きに対抗させて、イスラーム教徒の組織化を支援し、同年末、全インド=ムスリム連盟を結成させるなど、宗教的対立を利用して独立運動を抑えようとした。
第一次世界大戦が始まるとイギリスは戦後の独立を約束して戦争協力を取り付け、多数のインド兵がヨーロッパ戦線に送られたが、戦後その約束は守られず、ガンディーらを中心とした独立運動が本格化することとなる。
→ インドの反英闘争