インドのイスラーム教徒
全インドムスリム連盟を結成し、ヒンドゥー教徒と対抗するようになる。1947年インド独立にあたり、パキスタンを建国。インドに残ったイスラーム教徒はヒンドゥー教徒との関係が悪化している。
イスラーム教は、8世紀に早くもインダス川下流域に及んできた。しかし、インドへの普及は他の地域のように迅速には行かなかった。インドへのイスラーム教の浸透は、民族宗教として定着しているヒンドゥー教、それとまだインドで勢いを保持していた仏教やジャイナ教などの先行する宗教と競合したからであった。
1206年の奴隷王朝に始まるデリー=スルタン朝と、1526年以来のムガル帝国まで、イスラーム教は支配者の宗教であり、ムスリムが政府の要職を占める支配者階級を形成していたが、全体的に見ればヒンドゥー教徒に対しては少数派であった。しかし、政治的な面で両者が対立することはあったが、ムガル帝国の当初の宥和政策もあって、民衆レベルではヒンドゥー教とイスラーム教は共存し、それぞれの信仰に寛容であり、排除することはなかった。ムガル帝国が非ムスリム排除の姿勢を明確にするのは17世紀後半のアウラングゼーブ帝以降のことである。それでも村落レベルでの両教徒の共存は続いていた。
1857年のインド大反乱においてもムスリムのシパーヒーはヒンドゥー教徒と共に闘い、ヒンドゥー教徒もムスリムの支配者であるムガル皇帝を支持した。イギリスに協力したシク教徒とは戦った。しかし、ムガル帝国が滅亡すると、ムスリムもその支配者としての地位をイギリスに取って代わられることになった。
国民会議派も大戦中のインドの戦後自治約束に期待したが、改革は不徹底であるだけでなくローラット法を制定して取り締まりを強化したことに反発し、それまでの親英的な態度をすて、反英運動を明確にした。その指導者として登場したガンディーは、1919年4月、第1次非暴力・不服従運動(第1次サティヤーグラハ運動)を開始していた。
そのころ全インド=ムスリム連盟の議長となっていたジンナーなどインドのイスラーム教徒は国民会議派がカリフ擁護運動であるヒラーファト運動を開始したことを歓迎し、反影闘争での協力が成立、ここでヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の協調が成立した。
2000年代では小康を得ているが、インドではヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党が政権を握っており、一方のパキスタンにはイスラーム原理主義の動きもあって、緊張が続く状況は変わっていない。 → コミュナリズム/インドの宗教対立
1206年の奴隷王朝に始まるデリー=スルタン朝と、1526年以来のムガル帝国まで、イスラーム教は支配者の宗教であり、ムスリムが政府の要職を占める支配者階級を形成していたが、全体的に見ればヒンドゥー教徒に対しては少数派であった。しかし、政治的な面で両者が対立することはあったが、ムガル帝国の当初の宥和政策もあって、民衆レベルではヒンドゥー教とイスラーム教は共存し、それぞれの信仰に寛容であり、排除することはなかった。ムガル帝国が非ムスリム排除の姿勢を明確にするのは17世紀後半のアウラングゼーブ帝以降のことである。それでも村落レベルでの両教徒の共存は続いていた。
1857年のインド大反乱においてもムスリムのシパーヒーはヒンドゥー教徒と共に闘い、ヒンドゥー教徒もムスリムの支配者であるムガル皇帝を支持した。イギリスに協力したシク教徒とは戦った。しかし、ムガル帝国が滅亡すると、ムスリムもその支配者としての地位をイギリスに取って代わられることになった。
イスラーム教徒の自覚
こうして政治的な権力を無くした少数派であるムスリムは、次第に反イギリス的になり、またヒンドゥー教徒に対する対抗心を持つようになっていった。ヒンドゥー教徒が植民地機構の官吏や軍人に登用されたのに対して、ムスリムはそれを拒否するようになったため、かえって官吏や軍人になる道を閉ざされて差別される存在となっていった。そのような状況からの脱却を目指して、イスラム教徒の中にも19世紀末にサイイド=アフマド=ハーンに率いられたアリーガル運動といわれるアリーガル大学を中心としたイスラム文化復興をめざす運動が起こった。ヒンドゥー教徒との対立
インドの民族運動が盛んになるにつれて、インド人のアイデンティティとしてヒンドゥー教改革運動(ヒンドゥーイズム)が強まりった。そそれにたいして、イスラーム教徒も宗教的な違いを際立たせるようになり、ヒンドゥーとイスラームの対立であるコミュナリズム問題が深刻になっていった。イギリス当局はこのヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して「分割統治」を行おうとして、1905年にベンガル分割令を出したところ、ヒンドゥー教徒を主体とした国民会議派はカルカッタ大会で「英貨排斥・スワデーシ・スワラージ・民族教育」の4項目を掲げて反英運動を明確に打ち出した。するとイギリスはムスリムに対する姿勢を転換させ、利用しようとした。こうしてイギリスの容認のもと、1906年全インド=ムスリム同盟が結成され、ヒンドゥー教徒を中心とした国民会議派と対抗する勢力となっていく。ヒラーファト運動
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗戦国となったことを契機にイスラーム世界全体の象徴的存在であるカリフの地位が危うくなると、インドのイスラーム教徒の中からカリフ擁護運動(ヒラーファト運動)が始まった。カリフの地位を脅かしているのはイギリスであると捉えたイスラム教徒は、1919年11月に全インド・ヒラーファト会議を開催し、反英闘争を開始した。国民会議派も大戦中のインドの戦後自治約束に期待したが、改革は不徹底であるだけでなくローラット法を制定して取り締まりを強化したことに反発し、それまでの親英的な態度をすて、反英運動を明確にした。その指導者として登場したガンディーは、1919年4月、第1次非暴力・不服従運動(第1次サティヤーグラハ運動)を開始していた。
そのころ全インド=ムスリム連盟の議長となっていたジンナーなどインドのイスラーム教徒は国民会議派がカリフ擁護運動であるヒラーファト運動を開始したことを歓迎し、反影闘争での協力が成立、ここでヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の協調が成立した。
宗教対立の再燃
しかし、カリフ制廃止が現実のものになると、ヒラーファト運動は自然に消滅し、またジンナーもガンディーの非常力運動に疑問を感じるようになって、共闘は消滅した。1930年代にはガンディーは第2次非暴力・不服従運動をおこし、1930年3月12日に「塩の行進」を開始したが、ジンナーらのイスラーム教徒はそのような反英実力行使には反対、さらに第二次世界大戦が勃発するとガンディーがイギリスに対して「インドを立ち去れ(クィット・インディア)」を宣言したのに対して、ジンナーは明確にイギリス支持を打ち出した。パキスタン宣言
1940年3月23日には、ジンナーはインドの「二民族論」を掲げ、イスラーム教徒(ムスリム)はヒンドゥー教徒とは別個な国家を樹立するべきであり、その国家はパキスタンと言うべきだというパキスタン宣言を発表した。パキスタンの分離独立
イギリスはこの両派の対立を利用して、「分割統治」という植民地支配の原則を貫徹しようとした、といえる。結果、インド全体で独立への声が高まるなか、イギリスがさまざまな介入を行った結果、1947年8月15日、インド・パキスタンの分離独立となった。ヒンドゥー教徒のインド連邦に対して、イスラーム教徒はパキスタンとして独立したが、このときのパキスタンは西のインダス川流域と東のガンジス川下流域とに分離した二つの地域から構成されることとなった。このとき、多くのイスラーム教徒は、東西パキスタンに移住し、反対にムスリム居住地区となった地域からはヒンドゥー教徒が移動するという、民族移動が展開され、その間虐殺行為などによって多くの犠牲が生じるという悲劇となった。ヒンドゥー至上主義による攻撃
インドにはなおもイスラーム教徒が多く残っていた。特に北西部のカシミールやパンジャブ州にはムスリムが多く、パキスタンとの国境紛争の要因となり、三次にわたるインド=パキスタン戦争が起こった。1980年代にはインド国内でヒンドゥー至上主義の運動が強まり、ムスリムに対する迫害事件が頻発した。特に1992年には北インドのアヨーディヤのムガル朝が建設したモスクをヒンドゥー教徒の過激派が襲撃して破壊し、ラーマ寺院の建造を強行するというアヨーティヤ事件がおこった。その際の衝突では多数の死者が出ている。2000年代では小康を得ているが、インドではヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党が政権を握っており、一方のパキスタンにはイスラーム原理主義の動きもあって、緊張が続く状況は変わっていない。 → コミュナリズム/インドの宗教対立