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スワデーシ

1906年のインド国民会議派の四大綱領の一つで国産品愛用を意味する。

 インド国民会議派が、イギリスがベンガル分割令を制定したことに反発して、1906年12月にベンガルの大会で採択したカルカッタ大会四綱領の一つ。英貨排斥(ボイコット)とともにインド全土に広まり、イギリスの工業製品に対する打撃となった。 → イギリスのインド植民地支配と民族運動

イギリス産綿布への反発

 最も強くボイコットされたのがイギリス産綿布であった。かつて綿布の生産国であったインドが、イギリスの産業革命のインドへの影響によって立場が逆転し、イギリスの機械制大工場制の安価な綿布が大量にインドに入ってきたためインドの綿工業が衰退し、農村の家内工業は破壊され、失業と貧困がインドに広がったことに反発したのである。

インド産業の勃興

 ボンベイに本拠をおく商業資本家ジャムシェドジ=タタは、イギリス産業に対抗するには自前で鉄鋼業を興す必要があると考え、アメリカに渡ってピッツバークの会社から技術協力を取り付け、帰国後1906年に製鉄会社を興そうとした。ちょうどその年に始まったスワデージ(国産品愛用)の運動は、綿製品のボイコットだけでなくインドの資源はインド人みずからが開発すべきであるという意識が高まっていた。こうしてインド人の資金を集めたタタは、1911年には銑鉄、1912年には鋼鉄をインドで生産を開始した。当初はイギリス産鉄鋼に価格、質で太刀打ちできなかったが、第一次世界大戦での需要増が幸いして経営は軌道に乗り、タタ製鉄はその後インド、いや世界でも指折りの製鉄会社に成長する。彼の製鉄所がある工業都市はその名からジャムシェドプールと名づけられた。<吉岡昭彦『インドとイギリス』1975 岩波新書 p.111-113>

ガンディーの手紡車(チャールカ)

 スワデーシ(国産品愛用)のスローガンは1906年のベンガル分割令反対闘争を開始した国民会議派の四大綱領に始まるが、それをインドの独立運動の象徴的なスローガンに高めたのは、第一次世界大戦後に登場したガンディーであった。ガンディーは、手紡ぎ車(チャールカ)で紡いだ綿糸で手織り布地(ガーディ)を織りあげることで、イギリス産綿布に対抗してスワデーシ(国産品愛用)の実をあげることを考えたのだが、当時すでに手紡や手織りの技術はほとんど忘れられていた。ガンディーはサティヤーグラハ運動の拠点として設けた道場(アーシュラム)で手探りではじめることとなり、そのうちに技術を伝えるアウトカーストの女性たちの協力を得ながら、次第に技術を身につけていった。その運動は、インド人の綿布工場主からは反対されたが、ガンディーは「わたしは、この国産(スワデーシ)の形態を奨励したい。というのは、それを通じて、わたしは、半ば飢え、半ば仕事のないインドの婦人に仕事を与えられるからです。これらの婦人に糸を紡がせ、そしてそれで織った手織布地で、インドの人々に着物を作って着せることが、わたしの理想なのです。」と説得した。こうして手織り車はガンディーの運動の象徴とされ、またガンディーも生涯を粗末な手織り布地を来て過ごした。<ガンジー『ガンジー自伝』1983 中公文庫 蝋山芳郎訳 p.440>
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