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国民会議派

1885年のインド国民会議から生まれたインド最初の国民的な政党。ティラク、ガンディー、ネルーなどが指導し、常にインド独立運動の先頭にあった。1947年独立を達成してからは、インドの最大政党として長期政権を続け、70~80年代にはインディラ、ラジブのガンディー母子が政権を担当したが、次第に国民の支持を失い、90年代には主導権を失った。

 インド国民会議派 Indian National Congress はイギリス植民地支配下のインドで、イギリスの呼びかけで1885年ボンベイ(現在のムンバイ)で開催されたインド国民会議に参加した人々によって結成された、インド最初の国民横断的な政党。翌年の第2回大会からバネルジー全インド国民協議会が合流し、大きな組織となった。
 当初の参加者は弁護士・教師・官吏らの穏健な知識人で、上層から中産階級までを基盤とし、イギリスに協力しながら一定の自治や官吏登用での平等などの実現を議論する場にすぎなかったが、1905年ベンガル分割令反対運動を機会に、より高度な自治を要求し、より積極的に政治上の要求をつきつけ反英闘争を行うようになった。その中心となったのはティラクだった。国民会議派は1906年12月26日、カルカッタで大会を開き、カルカッタ大会四綱領と言われる英貨排斥スワデーシスワラージ民族教育を採択した。
 素の動きを警戒したイギリス当局は、ヒンドゥー教徒と対抗しているムスリム(イスラーム教徒)を支援し、同1906年12月30日、全インド=ムスリム連盟を結成させ、インドの宗教対立を利用した分断策を強めてインド国民会議派急進派の孤立化を図った。

政党としての国民会議派

 第一次世界大戦が起こるとイギリスは植民地インドの協力も不可欠となり、1917年には戦後自治を約束した。しかし、大戦後に制定されたインド統治法では自治は地方政治に限定されており、しかもローラット法1919 年に施行してインドの民族運動を厳しく取り締まろうとした。このような第一次世界大戦後の新たな段階で会議派の運動を指導するようになったのはガンディーであった。ガンディーの指導によって同1919年4月に始まった非暴力・不服従運動(第1次)によって、会議派の活動は中産階級から下層民まで含む広範な民衆の支持を受けるようになって性格が一変、明確な独立を求める民族運動の中心的な力となっていった。1920年には全国的な組織改革を行い、明確な政党となった。なおその主体はヒンドゥー教徒であるが、組織内にはムスリムも含んでおり、政治と宗教を分離させる世俗的組織を標榜した。特にガンディーはムスリムとの協力をよびかけ、1920年代初頭には両宗派の共闘が成立した。しかし、イギリスの分割統治の介入もあって、全インド=ムスリム同盟と対立するようになる。また運動の進め方をめぐってイギリスとの妥協を図り漸進的に自治を実現しようとする穏健派と、イギリスと闘い完全な自治を早急に実現しようとする急進派や、社会主義の影響を受けたグループなどの内部対立が常に存在した。新インド統治法成立後の1937~39年には地方自治が実現し、国民会議派は政権に参加し与党化していった。第二次世界大戦後にインド独立後はネルーらに率いられた国民会議派が政権を担当、1990年代初めまで長期政権を維持した。 → イギリスのインド植民地支配と民族運動(19世紀後半)
以下、インド国民会議派の長い歴史をいくつかの節目を追って見ていく。

結成の背景

 インド国民会議の開催を呼びかけ、指導したのはイギリスであった。イギリスは植民地支配機構の拡大に対応するため、インド人から官吏を採用しなければならない必要に迫られ、学校教育で英語教育を行うなどの「近代化」を進めたが、そのためインド人の中にも英語を話し、西洋近代思想(ロックやベンサムなど)に触れ、その人権思想に影響されるものも現れた。また19世紀後半に高まったヒンドゥー教改革運動によってインド人としての民族的自覚も高まり、それらはインド人の平等の要求から自治要求、さらに民族独立を要求する動きを産みだしていった。おりからイギリスの植民地支配による収奪による貧困に加えて農村には凶作が続き、反植民地、反イギリスの運動の爆発も予想されるような状況となっていた。 → インドの民族運動

イギリスの呼びかけで結成

 「革命前夜のような」状況のなかでイギリス植民地当局は、インド大反乱の再発を恐れ、運動を穏健で協力的なものに誘導し、不満のはけ口としようと考えた。そして当局も情報が吸い上げることのできる組織を作ることを元内務長官のヒュームがインド総督に提唱、ヒュームがカルカッタ大学卒業生の穏健な知識人に呼びかけて結成された。このようにイギリスの呼びかけに応じて組織されたもので、インド人が自発的に組織したものではないが、インドで初めて国民の中に横断的に政治目的を持つ政党が出現したことの意義は大きい。

初期の要求

 当初の国民会議派の具体的な要求は、中央政府と地方政治における代議制導入による自治と官吏採用に際してのインド人差別を撤廃し平等を実現することにあった。インド政庁の高等文官職(Indian Civil Service 略称ICS)は1855年から公開競争試験となりインド人にも門戸が開かれたが、試験はロンドンで英語で行われ受験年齢も低かったのでインド人には非常に不利であった。バネルジーは試験に合格したが年齢がオーバーしているとして問題視され、結局彼は辞任した。国民会議派に参加した知識人はこの不平等の解消を要求した。また指導者の一人ナオロジーは、「富の流出」論を提起して、インドの貧困の原因をイギリスの搾取にあるとの考えを示した。しかし、植民地支配反対や明確な独立を要求するものではなかった。むしろ、イギリスの‘王冠’に対する忠誠を表明していた。

独立運動への転換

 このように国民会議派はイギリスの統治に協力的で穏健であったが、それを転換させる契機となったのはイギリス自身の政策であった。1905年のイギリスのベンガル分割令(カーゾン法)が出されると、ベンガル地方中心に激しい反対運動が起こった。国民会議派の中にもティラクら急進派が台頭し、1906年のカルカッタ大会四綱領として「英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治)・民族教育」を掲げ、反英民族独立運動という方向性を明確にした。 → インドの反英闘争(20世紀)

急進派と穏健派の分裂

 ティラクらの急進派に対して、古くからの運動家のバネルジーはイギリスの支配を認め、その協力によってインドの近代化を図るべきであるとして、短絡的な独立運動への転換に反対した。イギリスが翌年、インド統治法の改正など一定の妥協案を示すと、バネルジーらはそれを認めた。それに対してティラクら急進派は妥協はすべきでないとして国民会議派を脱退し、ここに早くも運動は分裂した。分裂工作に成功したイギリスは、急進派に対する弾圧を強化し、ティラクの反英的な言動をとらえて逮捕し、有罪としてビルマの監獄に送ってしまった。そのほか、有力な急進派は日本などに亡命し、解体させられた。こうして国民会議派の運動はイギリスの巧妙な分断策によって、一旦停滞を余儀なくされた。イギリスは一方で国民会議派に対抗させるため、イスラーム教徒の組織化を支援し、1906年に全インド=ムスリム同盟を成立させた。

ガンディーによる第一次非暴力・不服従運動

 第一次世界大戦頃からガンディーの指導のもとで新たな運動を展開するようになり、サティヤーグラハ(真理の把握の意味。非暴力・不服従による運動)が提唱され、非暴力主義による反英、独立運動の中心勢力となる。イギリスは大戦中に戦後の自治を約束しながら、戦後は反英運動取り締まりを強化してローラット法を制定し、さらに1919年インド統治法では地方政府の一部に自治を認めただけの不十分な改革しか実施しなかったため、1919年末からガンディーを指導者とした第1次非暴力・不服従運動が開始された。ガンディーはそのころイスラーム教徒がはじめたヒラーファト運動(カリフ擁護運動)との提携を進め、ここに宗教の壁を越えた全インドの反英闘争が初めて組織された。

国民会議派の変質

 この運動を通じて、インド国民会議派は、従来の親英的な知識人が主体となった「合法的な手段によってイギリス帝国内での一定の自治を認めさせる」政治討論の場としての存在から、運動の主体は中下層階級の市民、教師、役人から農民や労働者まで含む大衆的な組織となり、またあらゆる手段を用いて、自治を獲得することをめざす政党へと転身したといえる。会議派は今や、かつての「英語上手でズボンの折り目正しい紳士たち」の議論の場から、大衆を基盤とした行動する政党へ脱皮した。その象徴が粗末な手織り綿布(カーディ)をまとい、裸足で歩くガンディーであった。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.126>

運動の多様化

 しかし、1922年には農民の暴力事件が起こり、ガンディーが運動の停止を指令した。唐突な運動の停止は多くの混乱を生じ、国民会議派の指導力が弱まった。またオスマン帝国のカリフ退位に伴ってヒラーファト運動も退潮したため、両信徒の対立が再燃し、イギリスはその対立を利用して分割統治を進めようとした。こうして20年代は国民会議派の運動は停滞したが、この時期には、インド産業の発展に伴って労働運動が盛んとなり、労働組合運動が始まったり、インド共産党などの社会主義政党などの党派も生まれ、反英運動は多様化した。

第2次非暴力・不服従運動

 イギリスが1927年に設置したインド統治のための憲政改革調査委員会(サイモン委員会)にインド人が含まれていないことから、激しい反発が生じた。1929年、労働党マクドナルド内閣はロンドンで英印円卓会議の開催を提案したが、国民会議派はネルーなどの左派が台頭し、1929年のラホールでの国民会議派大会で「完全独立(プールナ=スワラージ)」を要求し、円卓会議のボイコットを宣言した。1930年からガンディーが闘いの先頭に立ち、塩の行進を開始してイギリス支配の不当性を訴えると、再び全土で反英気運が盛り上がった。これが第2次非暴力・不服従運動であった。それによってイギリスの妥協を引き出し、ガンディーは運動を中止して第2回英印円卓会議に参加したが、会議は決裂し、ガンディーは帰国後再び逮捕された。ガンディーは不可触民の解放をめざすハリジャン運動に熱心になり、それに対してネルーやチャンドラ=ボースなど会議派左派は政治闘争を放棄するものであると批判し指導部が分裂したため、1934年にガンディーも運動の終結を宣言した。

国民会議派の与党化

 1935年に制定された新インド法に基づく中央立法府と州議会の選挙が1937年2月に行われた。インド国民会議派では、選挙に参加して政権に入ることを主張する穏健派と、完全自治を掲げて不完全な新インド法に反対し、選挙ボイコットを主張する急進派が対立し、紛糾した。ガンディーは新統治法に協力するためではなく、それを廃棄するために選挙戦に応じようと呼びかけ、結局は完全自治、人権擁護、貧困追放、大衆教育、農村の地位向上など左派の要求もスローガンに採り入れて選挙戦に臨むこととなった。その結果、国民会議派は圧倒的な勝利を収め、11州のうち7州で会議派単独州政府、2州で会議派系連立政府が成立した。パンジャーブとベンガルの2州ではムスリム連合系の政府となった。イギリスはなおも会議派の州内閣入りには難色を示したが、同盟休業などを行いようやく認めさせ、6月にようやく会議派州政府政権が発足、37年から39年の2年間で、義務教育の普及、地税の軽減、小作農の保護、ハリジャン運動の促進などの成果を上げた。しかし国民会議派政権の下で少数派であるムスリム連盟は、この事態を「ヒンドゥー支配体制」と捉え、反発を強めた。このような中でインドは第二次世界大戦に直面することとなる。

第二次世界大戦開戦と国民会議派

 1939年9月3日、第二次世界大戦が勃発すると、イギリス総督は直ちにイギリスの植民地たるインドも自動的に戦争状態にあることを宣言した。それに対して国民会議派は「戦争に関する声明」を発表し、ナチの侵略行為を非難しながら、インド国民に一言の相談もなく自動的に参戦させたイギリス政府への激しい怒りを表明、まず戦争目的を明らかにせよと要請した。イギリスの解答は、戦争目的には触れず、戦後のインド側各宗派、政党、藩王国との憲法制定に関する協議を行うという、依然としてインドの分断を狙うものであったので、ネルーら国民会議派は抗議を込めて各州政府から会議派閣僚を引き上げた。これによって国民会議派が与党として地方政権に加わったのは1937年から39年の実質2年間だけに終わった。1940年3月、国民会議派はガンディーの非暴力の精神にもとづいて戦争反対を唱え、サティヤーグラハ運動を開始すると宣言した。それに対してムスリム連盟側は同年、ジンナーは「二民族論」を掲げ、インドとは別個のムスリム国家(それをパキスタンと言った)の建設を目指すことを明確にした。ネルーはジンナーと会見して民族の団結と協力を訴えたが、ジンナーは拒否した。ガンディーは戦争中に大衆闘争は困難と考え、「個人的サティヤーグラハ」と称して、一部指導者だけによる反戦宣伝活動に留めたが、イギリスはそれらの反戦活動を取り締まり、逮捕して投獄した。

ガンディーの「インドを立ち去れ」運動

 1941年12月、日本が太平洋戦争を開始し、日本軍はマレー半島から42年3月にはビルマに侵攻し、ラングーンを占領してインドに迫った。アメリカのF=ローズヴェルト大統領はインドを対日戦に協力させるために、イギリスに対してインドの独立承認を強く迫った。イギリスのチャーチル首相は国際的圧力と挙国一致内閣を構成する労働党への配慮から、ようやく特使クリップスを派遣して独立問題を協議することとした。クリップス提案は、戦後に連邦国家「インド連合」に対しカナダやオーストラリア並みのイギリス連邦内の自治国となることを認めるというものであったが、戦争協力を条件とした独立であり、しかも即時独立ではなく戦後のこととされ、また藩王国が連合に加わりたくなければ独自にイギリスと条約を結ぶことができるなど、不十分なものであったので、国民会議派などの諸政党はいずれもそれを拒否した。その結果、反英闘争でのガンディーの指導力が再び強まり、彼の提案で1942年8月8日「インドを立ち去れ(クィット=インディア)」運動を開始した。イギリスは翌日、ガンディー、ネルー、アーザード(彼はムスリムであった)など指導部を逮捕するとインド全土で抗議活動が展開され、約490人の死者、6万人以上の逮捕者が出る反英・反戦暴動が起こった。一方、ガンディーの非暴力主義を批判して国民会議から離れた左派指導者チャンドラ=ボースは日本軍に協力してイギリスからの独立を実力で勝ち取ろうと考え、「インド国民軍」を編成し、日本軍のインパール作戦に参加した。しかし、日本軍が敗れたため、ボースはインド脱出を図り、途中台湾で事故死した。インド国民軍は、戦後反乱軍として裁判にかけられたが、独立のために戦ったとして彼らを支援する暴動が各地で起こった。このようにインドは騒乱の中で第二次世界大戦の終結を向かえた。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.186-192 長崎暢子『インド独立』1918 朝日新聞社 など>

インドの分離独立

 大戦終結前に労働党アトリー内閣が誕生、インドの独立承認を掲げていた労働党政権の成立はインド独立を一歩実現に向けて動かした。復活した中央・地方の選挙が1946年1月に再開され、11州中8州に国民会議派政権が成立した。しかしムスリム連盟も勢力を拡大、ベンガルとシンドの二州では単独政権、パンジャーブでは連立政権に加わった。同年春、イギリス政府代表と国民会議派、ムスリム連盟の三者による憲法制定にむけて三者会議が開催されたが、統一を維持した独立(現実的には連邦制)を主張する国民会議派とヒンドゥー国家・イスラーム国家の分離独立を主張するムスリム連盟の溝が埋まらず、8月16日にちにはカルカッタで両派が衝突、死者4700,負傷者1万5千という大惨事が起こった。その後もコミュナル騒動と言われるコミュナリズムによる両派の対立がつづき、77歳のガンディーはベンガル地方で村々をたずね非暴力と融和を説いたが、暴力の嵐を押しとどめることはできなかった。イギリス政府はネルーとジンナーをロンドンに招いて仲介しようとしたがそれも不調に終わり、ついに1947年2月20日にアトリー首相は、来年6月までにインドから撤退し、政権を譲渡することを声明し、最後の総督としてマウントバッテンを任命した。マウントバッテン総督は両派やシク教徒代表と次々と会談、宗派間の対立は埋めがたいと判断して、分離して憲法制定に当たること、独立の時期を1年早めて47年8月とすることを決定した。この「マウントバッテン裁定」は国民会議派、ムスリム連盟双方が受諾し、ここに分離独立が決定したが、両派の融和をあくまで求めるガンディーは国民会議派を脱退した。こうして1947年7月、イギリス本国の議会で「インド独立法」が成立、ほぼ1ヶ月という短期間に分離独立の準備、国境線の策定などが行われ、8月15日、インド連邦パキスタンの両国がそれぞれ独立した。インド連邦は首相に国民会議派のネルーが就任した。 → インドの分離独立

第二次世界大戦後のインド国民会議派

 第二次世界大戦後、1947年にヒンドゥー教徒主体にインド連邦として独立を達成したがイギリス連邦にはとどまった。1950年に憲法を制定し、大統領制のインド共和国(国号は単にインド)となった。ネルーに指導された国民会議派は与党として政権を握った。独立と同時にパキスタンとの間でカシミール領有権をめぐるインド=パキスタン戦争となったが、その一方でネルーは中国の周恩来と共に1950年代の第三世界の指導者として華々しく世界的に活躍し、平和五原則アジア=アフリカ会議など大きな成果を上げた。しかしその平和外交、非同盟主義は、チベット問題から起こった中印国境紛争などの現実の前に貫徹することはできなかった。

インディラ=ガンディーの強権政治

 国内では国民会議派の長期政権が続くなかに60年代に保守化して次第に支持を失った。69年に分裂した後、社会主義色を強めたインディラ=ガンディー(ネルーの娘)が国民会議派の実権を握り、国民的な支持を受けて政権を担当し、貧困の追放を掲げた社会主義的諸改革を実行したが、次第に強権的となり、1975~77年には非常事態宣言を行って国民の言論の自由を制限、その一方で汚職が横行するなどの悪政を行った。77年には国民の批判を逸らすために総選挙を行ったが、裏目に出て国民会議派は大敗、30年続いた政権を一時放棄せざるを得なくなった。

「ネルー王朝」への批判

 インディラ=ガンディーは後継内閣が内紛で瓦解したため80年に政権に復帰したが、84年にパンジャーブ州の自治要求を武力で鎮圧したことに対するシク教徒過激派の報復を受け、暗殺された。後継首相にインディラの長男のラジブを指名、ラジブ=ガンディーは清潔なイメージに期待されたが、国民会議派のネルーの血統に依存する「ネルー王朝」的な体質に対しても批判が強まった。クリーンと思われたラジブも外国の武器会社からの収賄の疑惑が持ち上がり、1989年の総選挙では大敗し、国民会議派は再び野党に転じた。ラジブは1991年の総選挙で返り咲きを狙ったが、選挙運動中に、かつて87年にスリランカに出兵したことに反発していたタミル人過激派によって暗殺された。

インドの転換

 ネルーの一族による政権継承にも反発が起こって暗殺され、国民会議派自体も次第に退潮傾向が顕著になったが、91年総選挙ではラジブ暗殺への反動もあってかろうじて多数を占め、与党に復帰した。同時に、1991年の冷戦の終結、ソ連の崩壊という世界的変動を受けて、大胆に方向を転換、それまでの計画経済路線を転換して、市場経済を導入して経済自由化に踏み切り、経済成長を至上命題とすることになった。
 その一方でヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党が1998年に第一党となり、政権交代が実現した。しかし、インド人民党政権は、ナショナリズムに迎合する姿勢を強めて、パキスタンに対する強硬姿勢をとり、同年5月、地下核実験を強行した。さらにインド人民党政権はイスラーム教徒に対する強硬姿勢をとり、2002年にはアーメダバードでヒンドゥー至上主義者によるイスラーム教徒襲撃事件で約千人の犠牲が出るなど宗教対立が相次いだ。その結果、2004年の総選挙で、穏健なヒンドゥー教徒の支持を無くし、インド国民会議派は第1党の座に復帰した。しかし、2014年からは再びインド人民党政権が復活している。。

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長崎暢子
『インド独立』
1918 朝日新聞社