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四月テーゼ

ロシア革命の中で、1917年4月、ボリシェヴィキ指導者レーニンが示した革命指針。「すべての権力をソヴィエトへ」と主張した。

 1917年3月にロシアで二月革命(三月革命)が起こると、4月に亡命先のスイスから封印列車でペテログラードに帰ったレーニンは、1917年4月17日、すぐに「四月テーゼ」として知られる「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」という論文を発表した。
 それは、ボリシェヴィキの運動方針を示し、社会主義社会の建設を目指し、当面の課題としては臨時政府との対決、帝国主義戦争の否定とともにソヴィエトへの権力集中をはかることである、とした。これはレーニンが個人名で発表したものであったが、端的に「すべての権力をソヴィエトへ」という標語として、ボリシェヴィキに支持され、ロシア革命でのレーニンの指導性がこれによって確立したといえる。

史料 レーニンの“四月テーゼ”

<標題>現在の革命におけるプロレタリアートの任務 1917年4月17日(露歴4月4日)
  1. リヴォフ(注①)一派の新政府のもとでは、この政府の資本主義的性格のために、ロシアにとってこの戦争は今なお無条件に掠奪的な帝国主義戦争であって、戦争に対するわれわれの態度に関しては、「革命的祖国防衛戦争(注②)」にいささかなりともも譲歩することは許されない。(中略)
    (注①)二月革命で成立した臨時政府の首相。ドイツとの戦争を継続した。
    (注②)侵略や領土併合のための戦争ではなく、プロレタリアにとっての祖国を守る戦争である、との意味。
  2. ロシアにおける現在の情勢の特徴は、プロレタリアートの自覚と組織性とが不十分なために権力をブルジョワジーにあたえた革命の第一段階(注③)から、権力をプロレタリアートと農民の極貧層の手にあたえなければならない革命の第二段階への移行ということである(中略)。
    (注③)二月革命のこと。
  3. 臨時政府を決して支持しないこと。臨時政府のすべての約束、とくに領土の併合をやらないという約束が、まったく嘘であることを説明すること。
  4. 大多数の労働者代表ソヴィエトで、我が党(注④)がいまのところ、わずかな少数派であるという事実を認めること。(中略)われわれが少数派であるあいだは、われわれは誤りの批判と解明の活動を行うと同時に、大衆が経験によって自らの誤りからぬけだすように、すべての国家権力を労働者代表ソヴィエトにうつす必要を宣伝する。
    (注④)ボリシェヴィキのこと。この段階ではソヴィエトの中の多数派はメンシェヴィキと社会革命党だった。
  5. 議会制共和国ではなく――労働者代表ソヴィエトからそれへもどるのは、一歩後退であろう――全国にわたる、下から上までの労働者・日雇農・農民代表ソヴィエトの共和国。
    警察、軍隊、官僚層の除去(すなわち常備軍を人民全体の武装におきかえること)。(中略)
  6. 農業綱領では、重心を日雇農代表ソヴィエトに移すこと。すべての地主所有地の没収。国内のすべての土地の国有化。土地の処理を地方の日雇農・農民ソヴィエトにゆだねること。
  7. 国内のすべての銀行を即時に単一の全国的銀行に統合し、労働者代表ソヴィエトからの統制を導入すること。
  8. われわれの直接の任務は、社会主義を「導入」することではなくて、社会的生産と生産物の分配とに対する、労働者代表ソヴィエトの統制にただちにうつることにすぎない。
  9. 党の任務。
     (a)党大会の即時開催
     (b)党綱領の改正
     (c)党名の変更(社会民主党から共産党へ
  10. インターナショナルの革新
<歴史学研究会『世界史史料10』岩波書店 p.50-51 をもととし、一部、『新訳世界史史料・名言集』山川出版社 p.133を参照して修正した。>

革命派も驚いた四月テーゼ

 二月革命でロマノフ朝が倒れ、臨時政府が発足した3月の段階では、ソヴィエトに結集していたメンシェヴィキ社会革命党、そしてボリシェヴィキの大部分も、議会制共和国への移行を実現することが急務であり、まずブルジョワジーによる資本主義社会が形成された後に労働者階級が成長し、社会主義を実現することになるだろうと予測していた。メンシェヴィキと社会革命党は社会主義社会を段階的・平和的に実現しようと考え、ボリシェヴィキも実力によってブルジョワ権力から権力を奪うことで社会主義を実現させることができると考えていたが、トロツキーなどの一部を除き、それはまだずっと先のことと考えていた。臨時政府は第一次世界大戦中のドイツとの戦いを継続しながら講和の機会を探っていたが、ボリシェヴィキは無賠償・無併合の講和を主張しつつ臨時政府への協力姿勢もやむなしと判断していた。
 このように1917年春のロシアの革命派は、まずは西欧的な議会制民主主義、多党制の政治の定着と、資本主義経済のなかで、徐々に党勢を伸ばせば良い、というのがボリシェヴィキも含む大体の共通認識だった。。
(引用)だから、4月3日にペトログラードに到着したレーニンが、「国際規模での社会革命の開始」を口にしたことで、みな本当に仰天したのだった。それから彼は、「四月テーゼ」として知られる10項目の方針を発表した。戦争を民主的に終わらせるためには資本の支配と手を切る必要がある、権力はプロレタリアートを貧農の手に移らねばならない、臨時政府には一切支持を与えてはならない。(中略)
 要するにレーニンの「ソヴィエト共和国」構想は、民衆の反乱を全肯定し、そうした反乱のありようをそのままあたらしい秩序の基礎に据えようというものであった。「底が抜けた」状態を全肯定して、資本主義や私的所有権を迂回したロシアをつくろうというのであった。それは世界革命への革新とも結びついていた。<池田嘉郎『ロシア革命』2017 岩波新書 p.96-97>

十月革命へ

 レーニンの主張はそれまでの社会主義者の常識とはかけ離れていたので、同志や彼の弟子たちも困惑した。古くからのレーニンの弟子であるカーメネフはよりゆるやかな革命路線をのちまで求め続けていた。ボリシェヴィキの幹部の中ではトロツキーが、いち早く「四月テーゼ」に賛同し、ロシア革命はひとたび始まったら社会主義革命段階までとどまることなく進むであろう、と予見した。  そして実際にも、4月以降のロシアは、臨時政府とソヴィエトの二重政権のもとでさまざまな矛盾が表れ、農民騒擾、労働者の蜂起が相次ぐなか、反革命の動きも起こって「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンを掲げたボリシェヴィキ派が主導権を握る状況となり、レーニンの主張どおり、十月革命で臨時政府が倒され、ソヴィエト政権成立・ボリシェヴィキ独裁へと突き進み、一挙に社会主義革命段階へと進むことになる。