印刷 | 通常画面に戻る |

トロツキー

第2次ロシア革命の指導者。外務人民委員としてドイツとの講和条約であるブレスト=リトフスク条約の交渉に当たった。また外国の革命干渉、国内の反革命軍から革命を防衛する赤軍の創設に関わり、軍事指導者として活躍した。レーニン死後は主導権をスターリンと争い、世界革命を主張して一国社会主義を批判、ソヴィエト政権を追放され亡命生活に入り、1940年にメキシコで暗殺された。

トロツキー
Trotskii 1879-1940
 トロツキー(1879~1940)は、ウクライナのユダヤ系農民の子として生まれる。1896年から労働運動にかかわり、捕らえられてシベリア流刑となる。脱走してペテルブルクにもどり、ロシア社会民主労働党に加わり、最初はメンシェヴィキを支持した。1905年の第1次ロシア革命後、ペテルブルクのソヴィエト議長となった。その後ロンドン、スイスなどに亡命した。

十月革命を指導

 1917年、二月革命(三月革命)が起こるとロシアに戻り、レーニンの指導するボリシェヴィキに加わり、十月革命の武装蜂起では軍事革命委員としての先頭に立って指導し、全ロシア=ソヴィエト会議で活躍した。その後もボリシェヴィキ独裁体制をささえるレーニンの最も重要な同志として活躍を続ける。

ブレスト=リトフスク条約

 第一次世界大戦はすでに長期化しており、ドイツ・ソヴィエト双方に停戦、講和を急ぐ事情が出てきた。1917年末には一応の停戦が成立、ブレスト=リトフスクで正式な交渉が始まった。ソヴィエト政権の人民委員会議は外務人民委員(外務大臣に相当する)となったトロツキーを首席代表としてドイツとの停戦交渉に当たらせた。ソヴィエトは無賠償・無併合の原則を主張したがドイツ雅はそれを認めず、すでに占領した広大な地域に対するソヴィエト=ロシア側の権利放棄を強く迫って、交渉は難航した。レーニンはソヴィエトの戦力では、一刻も早く講和しなければ革命そのものが崩壊してしまうと恐れ、即時講和を主張していた。トロツキーはレーニンの判断を理解はしていたが、一方でドイツ国内の労働者や社会主義者が内乱を起こし、ドイツ軍が行動できなくなることを期待し、時間稼ぎをはかろうと「戦争もしない、講和もしない」という策を立てた。ソヴィエト内部にはブハーリンなどの原理的社会主義者の革命戦争継続という主張もあり、トロツキー案は賛同を得られず、交渉は中断した。しかし1918年2月、ドイツが進撃を再開したことによってレーニンは交渉再開と即時講和をすることを決断した。トロツキーは最終的にはレーニンに同意、判断の誤りを認めて、外務人民委員を辞任した。ブレスト=リトフスク条約1918年3月3日に調印された。
(引用)1918年2月、ブレスト=リトフスクにおいて講和交渉が始まった。ソヴィエト代表団を率いるトロツキーは、示威的に、外交の伝統的慣行を放棄し、交戦諸国政府の頭越しに諸国民に訴えかけ、ドイツ軍中に反戦プロパガンダを公然と持ち込み、ドイツが西側連合国との交渉では受諾すると称していた「無併合・無賠償の講和」の要求をつきつけてドイツ代表団を困惑させた。
 しかし、ドイツの非妥協的態度とドイツ軍の圧倒的優位は、避けることのできないディレンマを提起していた。トロツキーは、帝国主義国との屈辱的条約に調印すること――レーニンはこれを不可避とみなすに至っていた――を、自分の革命的原則と和解させることができなかった。他方、彼の現実感覚は、ブハーリンや他の「左翼共産主義者」の「革命戦争」再開要求を支持することを彼に許さなかった。彼は「平和でもなく戦争でもない」という定式を考案した。しかしならが、ドイツがこうした外交とはいえないような奇妙なやり方に動ぜず、進撃を再開させるに至って、同様のディレンマがより一層緊迫した形で再発した。トロツキーは不承不承ながらレーニンに与して、ウクライナやその他の旧ロシア帝国領の広大な地域の放棄を含む、レーニン自ら「屈辱的」と認める講和の受諾に賛成投票し、外務人民委員の職を辞任した。<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命』1979 岩波現代文庫 p.14>

赤軍の創設

 外務人民委員を辞したトロツキーは、軍事人民委員に就任、赤軍を組織する任務を帯びた。1918年8月以降、反革命勢力と外国の干渉が強まると、革命を防衛するため、彼は現実主義者であったから、軍が未熟で未訓練な召集兵によって建設されるなどとは考えなかった。彼は新規の軍隊を訓練するために、公的には「軍事専門家」とよばれた職業軍人、旧帝国軍将校を徴募した。この便法はすばらしい成果を収め、1919年初めまでにこのような将校が3万人徴募され、1917年には1万の訓練兵にすぎなかった赤衛軍は、500万の赤軍へと成長した。トロツキー自身、類い希な軍事的才能を発揮したが、同時に絶対服従の要求と軍規違反者の処罰において容赦ないことでも知られた。<E.H.カー/塩川伸明訳 同上 p.16>

スターリンとの対立

 次第にレーニンの後継者の一人と見なされるようになったが、スターリンとの対立が強まり、レーニンの死後の1924年にスターリン派によって役職を解任され、29年には国外追放となった。
 トロツキーの主張は、世界革命(永久革命)論として知られ、世界同時革命を主張してスターリンの一国社会主義革命論と対立したのである。1940年、亡命先のメキシコで、スターリンのはなった刺客により暗殺された。『ロシア革命史』『わが生涯』など著作多数。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

トロツキー
志田昇訳
『トロツキー わが生涯』
上 1930初刊
2001 岩波文庫

トロツキー
志田昇訳
『トロツキー わが生涯』
下 1930初刊
2001 岩波文庫