ポーランド回廊
ヴェルサイユ条約でポーランド領とされ、ドイツ本土と東プロイセンを分断する形となった地域。1939年、ヒトラーのドイツがその通行を要求、ポーランドが拒否したことを口実に侵攻し、第二次世界大戦の勃発となった。
プロイセン公国を母体としていたドイツ帝国の領土は、現在のドイツの東方、ポーランド領にかなり食い込んでいた。第一次世界大戦でドイツが敗北した結果、ヴェルサイユ条約によって、ポーランドにバルト海への出口を与えるために西プロイセンが割譲された。そのため、ドイツ本国と、ドイツ領東プロイセンとを分断する形となったので、その間を結ぶ渡り廊下のような形となったため「ポーランド回廊」と言われた。(東プロイセンがドイツの飛び地となった。)
ヒトラー=ドイツの侵攻
この地域には多数のドイツ人が居住していたので、当初からドイツ側は不満を持った。ナチス・ドイツはこの地を奪回することを強く掲げ、1939年にヒトラーはポーランドに対し、ダンツィヒの返還とポーランド回廊への鉄道と道路の建設を認めることを要求、ポーランドが拒否したので、1939年9月1日、にポーランドに侵攻、第二次世界大戦の勃発となった。その結果、ドイツ領に編入されたが、大戦後はポーランド領に戻り、現在に至っている。