ドイツ軍のポーランド侵攻
1939年9月1日、ドイツ軍が侵攻を開始し第二次世界大戦が勃発、1ヶ月でその西部を占領した。同時に東からソ連軍が侵攻し、ポーランドは分割されることになった。
ドイツのヒトラーは、1938年にオーストリア併合を実行し、ミュンヘン会談で宥和政策をとるイギリス・フランスの妥協を引き出し、ズデーテン地方割譲に続くチェコスロヴァキア解体に成功した。さらにリトアニアからメーメル地方を奪ったナチス=ドイツは、次にその矛先をいよいよポーランドに向けてきた。すでに1935年に表明していた、ヴェルサイユ条約で自由都市とされていたダンツィヒ(ポーランド名グダニスク)の併合と、ポーランドに対するポーランド回廊での鉄道建設などの自由通行の要求を、1939年に改めて突きつけたのである。
ポーランド侵攻を計画したヒトラーは、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結してソ連と手を結んだ。イギリスはここに至ってようやく宥和政策を続けることが困難と判断し、ドイツを牽制するためポーランド支援を明確にし、25日にイギリス=ポーランド相互援助条約を締結、フランスもそれに倣った。
ユダヤ人絶滅政策 ポーランドを占領したナチス=ドイツは、ユダヤ人絶滅政策を強行、1940年1月からユダヤ人居住区(ゲットー)を封鎖し、さらに1942年からは「ユダヤ人問題の最終解決」と称してポーランドのシュレジェン地方のアウシュヴィッツ(現在のオシフィエンチム)等の絶滅収容所に移送してユダヤ人の大量殺害を実行した。1943年4~7月、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人は絶望的な蜂起を敢行したが鎮圧され、絶滅政策の犠牲となったユダヤ系ポーランド人はあわせて270万人と推定されている。<『ポーランド・ウクライナ・バルト史』新装世界各国史20 山川出版社 p.268> 1941年6月、独ソ戦が開始されるとドイツ軍はポーランドから東方に進撃、広大な東部戦線で戦争が激化、それは1943年3月のスターリングラードの戦いによって大きく形勢が逆転し、今度はソ連軍が西進してポーランドの解放に向けて進撃、ポーランドは戦場と化した。
ポーランド侵攻を計画したヒトラーは、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結してソ連と手を結んだ。イギリスはここに至ってようやく宥和政策を続けることが困難と判断し、ドイツを牽制するためポーランド支援を明確にし、25日にイギリス=ポーランド相互援助条約を締結、フランスもそれに倣った。
第二次世界大戦の開戦
1939年9月1日、のダンツィヒ(グダニスク)を親善訪問中のドイツ巡洋艦シュレスヴィヒ・ホルスタイン号が、突如ポーランド守備隊に対して砲撃を開始した。ナチス=ドイツは開戦の理由としてポーランド国内でドイツ系住民が虐待されていることをあげ、その保護を掲げたが、虐待の事実はなかった。ヒトラーの大義名分は、ヴェルサイユ条約で失ったドイツ領を回復することであり、それによって東方への「生存圏」を拡大する意図から始まめた戦争であった。これによって第二次世界大戦が始まった。ドイツ・ソ連によるポーランド分割
ドイツは3日にはイギリスとフランスに宣戦布告し、両国もポーランドとの相互援助条約があるので対ドイツ宣戦布告を発した。しかしイギリス・フランスはポーランドに援軍を送ることはせず、見守るだけだった。ドイツも当面はポーランド侵攻に集中し、対仏国境の西部戦線では「奇妙な戦争」と言われるにらみ合いが続いた。一方、ポーランド戦線では、ヒトラーは電撃戦を成功させ、9月10日、ドイツ軍はポーランド主力を破り、わずか1ヶ月でポーランド占領に成功、またソ連(スターリン政権)は、1939年9月17日に独ソ不可侵条約の密約にもとづき、東側からポーランドに侵攻し、1939年9月28日、ポーランドはドイツとソ連によって分割されてしまった。これは18世紀末の3次にわたるポーランド分割に続く、「第4次ポーランド分割」であり、再び国土を失ったポーランドの政府はロンドンに脱出し、亡命政府を設けたドイツのポーランド支配
ドイツは隣接する西部(ポズナニなど)を本国に編入し、ワルシャワを含む中心部は総督府を置いて統治し、支配地域のゲルマン化をすすめ、ユダヤ人に対する絶滅政策を強行し、多くのユダヤ系ポーランド人を殺害した。一方のソ連は人種的な差別政策は採らなかったが、反ソ的な動きは厳しく弾圧し、ポーランド国内軍の将校など1万人以上を秘密裏に殺害した。ソ連はドイツ軍の犯行としていたが、戦後になってカチンの森事件として明るみに出ると、その犯行を認めた。ユダヤ人絶滅政策 ポーランドを占領したナチス=ドイツは、ユダヤ人絶滅政策を強行、1940年1月からユダヤ人居住区(ゲットー)を封鎖し、さらに1942年からは「ユダヤ人問題の最終解決」と称してポーランドのシュレジェン地方のアウシュヴィッツ(現在のオシフィエンチム)等の絶滅収容所に移送してユダヤ人の大量殺害を実行した。1943年4~7月、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人は絶望的な蜂起を敢行したが鎮圧され、絶滅政策の犠牲となったユダヤ系ポーランド人はあわせて270万人と推定されている。<『ポーランド・ウクライナ・バルト史』新装世界各国史20 山川出版社 p.268> 1941年6月、独ソ戦が開始されるとドイツ軍はポーランドから東方に進撃、広大な東部戦線で戦争が激化、それは1943年3月のスターリングラードの戦いによって大きく形勢が逆転し、今度はソ連軍が西進してポーランドの解放に向けて進撃、ポーランドは戦場と化した。
ワルシャワ蜂起
ドイツ支配下のポーランドの首都ワルシャワで1944年8月1日からポーランド国内軍と市民による反ドイツの蜂起が始まった。このワルシャワ蜂起は63日にわたる戦闘の末、10月2日にドイツ軍によって鎮圧され、兵士1万8千と市民約15万が死んだ。当時ソ連軍がワルシャワに迫っていたが、戦後の主導権を握ることを優先したソ連はワルシャワ蜂起を見殺しにしたのではないか、と言われている。ドイツが敗退した後のポーランドをどの政治勢力が統治するのか、をめぐってすでに暗闘が始まっていたのであり、1945年の戦後処理に関する連合国首脳会談ヤルタ会談は主要な議題はポーランド問題に置かれていた。