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ザール/ザール帰属問題/ザール編入

独仏国境にある炭鉱地帯で帰属を巡り近代に両国間での対立が続いた。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で国際連盟管理となる。ナチスドイツはドイツ編入を要求、1935年、住民投票でドイツに編入を実現された。

 ザール地方は、ロレーヌ地方の東に隣接するドイツ・フランスの国境地帯。ヨーロッパ有数のザール炭田があり、豊かな工業地帯であったため、特に近代以降ではドイツ・フランス間でその帰属を巡ってザール問題という対立が深刻であった。ナポレオン戦争後のウィーン議定書でプロイセンとバイエルンによって分割され,普仏戦争でドイツ帝国が成立したことでドイツ領となり、人口の90%はドイツ人が居住していた。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約では15年間の国際連盟の管理下に置かれ、15年後に住民投票で帰属を決めるとされた。ただし、ザール炭田の採掘権はフランスに認められた。

ナチス=ドイツによるザール編入

 ヒトラーの率いるナチスは、ヴェルサイユ体制の打破を主張し、世界恐慌が波及して失業者が増大するという社会不安の中、勢力を急激に拡大し、ついに1933年1月に政権を獲得した。国内で独裁的な政治体制を作り上げたナチス=ドイツは同年10月、国際連盟を脱退し、ヴェルサイユ条約に縛られない政策を実行するようになった。そのような中で、国際連盟の管理下にあったザール地方でドイツ編入を要求する動きが強まり、管理期限が終了した1935年、人民投票が行われた。その結果、住民の90%を超える支持で、ドイツに編入されることが決まった。これは、ヒトラー=ドイツの最初の領土拡張の成功となり、ヒトラーは大きな自信を得た。

第二次大戦後のザール問題

 第二次世界大戦後の1945年にはフランス軍が占領、フランスは炭田地帯の領有に強い意志を示した。1949年、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立すると、首相となったアデナウアーはフランスとの協調外交を展開しながらザール問題の解決にあたった。
ヨーロッパ統合の焦点となる フランスのシューマン外相はザール地方をめぐりドイツ・フランスが対立することはヨーロッパの復興を阻害することになると考え、ルール地方と共にザール地方の石炭・鉄鋼業をフランス・西ドイツ・ベネルクス三国・イタリアで共同管理するヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の構想を1952年に発表し、ヨーロッパの統合の第一歩となった。
ドイツ領に落ち着く フランスはなおもザール地方のドイツからの分離を策し、欧州共同管理(欧州化)を提案したが、1954年に西ドイツの主権回復が認められたパリ協定の付属規定でその可否に関する住民投票が翌55年に行われた結果、67%が欧州化に反対したため、フランスもザールのドイツからの分離をあきらめ、1957年にそのドイツ復帰が実現した。現在はザールはドイツの一州となっている。

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