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民族資本(中国)

中国における民族資本は、19世紀末に生まれ、第一次世界大戦で列強が後退した間に急成長した。

民族資本の意味

 帝国主義列強の植民地支配が進む中で、植民地経済は外国資本に握られてきたが、次第に植民地側の民族の中に独自の資本を形成する動きが出てきた。そのような植民地の自国民の中から生まれた資本を民族資本、または民族産業、その担い手を民族ブルジョワジーという。民族資本の成長が植民地の独立の重要な条件となってくる。

中国における民族資本の形成

 1870年代の洋務運動の中で、半官半民の経営方式をとり、李鴻章によって多額の国家資金が貸与され、経営には官僚が加わるいわゆる官僚資本主義(明治期の日本の官営工場にあたる)が始まったが、関税自主権の喪失という中で、外国資本に押され十分な発達を遂げることができなかった。そのような中で、上海などの開港場に設けられた外国の租界の外国商社と深い関係をもった中国人商人が成長し、買弁といわれるようになり、その中から民族資本家に成長したものもあった。もっとも著名なのは、浙江財閥といわれた蔣・宋・孔・陳の四大家族がその例である。
 ようやく19世紀末にいくつかの民族資本が生まれたが、彼らは外国に握られている利権を回復しようとして、20世紀には利権回収運動を始めた。その資金の多くは外地にいる華僑の支援に依存していた。しかし彼らが掲げた鉄道の国有化反対は四川暴動を呼び起こし、辛亥革命の起点となった。
 辛亥革命で「中華民国」が成立したものの、政情は安定せず、しばらくは民間企業の成長も進まなかったが、ヨーロッパ列強が第一次世界大戦で忙殺されている間に、紡績業、製粉業などを中心に中国の民族産業の成長が始まった。

中国民族資本の成長

 ヨーロッパ列強が第一次世界大戦後で輸出能力を失い、中国への外国商品の流入が減少したので、紡績・製粉・マッチ・タバコ・石けんなどの軽工業を中心に、民族資本が急速に成長した。民族資本の投資総額は1914年から19年の6年間で2倍近くに増えた。その担い手となった民族ブルジョワジーは、基幹産業である鉄鋼・石炭・機械などが依然として外国資本に握られ、軍閥政府が外国の帝国主義と結びついていることに次第に不満を抱くようになった。また、外国資本の工場における労働者の賃金は非常に低く、団結権やスト権もなく劣悪な条件のもとにおかれていた。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書 1986 p.36- p.84->

中国の紡績業

 中国の紡績業は初め日本資本よりも劣勢であったが、第一次世界大戦中に急成長をとげ、五・四運動の時期には民族産業の花形となった。しかし、大戦後の1921年になると早くも不況に陥り、世界的規模で原棉調達・製品販売のルートを持つ外国企業に太刀打ちできず、22~23年には多くの企業が操業短縮・停止や、外国資本に吸収合併されたりした。<小島晋治・丸山松幸 同上 p.98>
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書籍案内

小島晋治・丸山松幸
『中国近現代史』
1986 岩波新書