印刷 | 通常画面に戻る |

(1)南洋華僑/華僑

主として中国南部海岸地方の中国人が海外に移住したこと。東南アジアを始め、世界中にひろがっている。清朝を倒す辛亥革命は華僑の運動から始まるなど、中国近代史でも重要な役割を担い、また東南アジア諸国でも社会・政治集団として影響力を発揮している。

 華は華人(中国人)、僑はもとは「仮住まいする人」の意味であったが、「旅する人、外地に居留する人」の意味になった。華僑の歴史は古く、中国が東アジア世界の中心となった唐代にさかのぼり、現在まで続いている(ただし華僑という言葉が生まれたのは19世紀末である)。中国人の海外移住は、中国人商人の海外発展が進み東南アジア各地への居留地の建設が行われた12~16世紀(南宋・元・明)と、経済が発展して人口が急増した18世紀の清朝、資本主義時代に入りアメリカ大陸やオーストラリアの開拓が進んだ19世紀から20世紀にかけての時期など、幾度かの波があった。 → 移民  (2)19世紀の華僑の増加  (3)中国革命と華僑  (4)現在の華僑

「南洋」の意味

 中国の東海岸は、清末に遼東・直隷(河北)・山東の三省の海岸を「北洋」と、浙江省から以南を「南洋」とに分けて管理された。「北洋」は北洋大臣の管轄下に入り、「北洋艦隊」などが現れる。海上貿易が活発であったのは「南洋」に属する福建省と広東省の沿岸であり、華僑の多くもこの地域の人々なので、南洋華僑という言葉が生まれた。福建や広東は土地が不足していたために、海外に移住するものが多かった。

清代の華僑

 清朝では、はじめ遷界令で海外渡航禁止とされていたが、三藩の乱の鎮圧、鄭氏台湾の降伏など、清朝の支配が安定したことによって海禁が解除されると、福建や広東の南洋華僑と言われる人びとがまず東南アジアで活動するようになった。とくにスペインの対中国貿易の拠点であったマニラと、オランダ東インド会社の拠点であったジャワ島のバタヴィアには多くの華僑が移り住んだ。さらに18世紀に地丁銀制施行などによって中国の人口の急増が始まると、福建や広東は耕地が少ないために人口を維持できなくなったこともあって、中国人の海外渡航が多くなった。乾隆帝の時、1757年に貿易港が広州一港に限定され海外渡航の自由は無くなったが、密航という形での海外渡航が続いた。さらに特に1830年代以になると、従来のインドネシアマレーシアシンガポールタイフィリピンなどの東南アジアだけでなく、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどにその移住地域が広がり、それらの地域で資本主義勃興期の労働力となった。彼らは異郷の大都市で、宿泊や集会などの相互扶助・親睦のために会館・公所を設けて活動の拠点としていた。

(2)19世紀の華僑の増加

19世紀中頃、中国の開国に伴い、アメリカ大陸への華僑の増加がすすむ。アメリカの西部開拓、産業発展の重要な労働力となった。

華僑増加の背景

 1833年にイギリスが奴隷制度廃止を決定して殖民地の黒人奴隷労働を禁止したことがあげられ、イギリス領の海峡植民地であるマレー半島のスズ鉱山やゴム園、カリブ海域のサトウキビ・プランテーション(砂糖農園)などで中国人が労働力とされた。一方、清朝でもアヘン戦争に敗れ、1842年の南京条約によって海禁が終わって開国し、1860年北京条約で中国人の海外渡航が認められたことから、海外移住が自由になり、華僑の急増がもたらされることとなった。

アメリカ大陸の華僑

 アメリカ合衆国で19世紀中ごろにゴールド=ラッシュが始まると鉱山採掘に使役され、さらに大陸横断鉄道の建設が始まると、その頃アメリカ合衆国では黒人奴隷制度が廃止されたため、それに代わる労働力として多数の中国人が太平洋を渡った。 → アメリカ合衆国の移民
 アメリカ合衆国とカナダにおいては、特に大陸横断鉄道の建設に多くの華僑が使役された。アメリカやカナダの開拓にあたって中国人は苦力(クーリー)といわれる安価な出稼ぎ労働力として奴隷同様に使役され、中国から彼等を送り出すことはクーリー貿易といわれた。このような帝国主義時代の移民によってアメリカ合衆国は発展を遂げたが、中国人労働者の安価な「契約労働」という形態は、白人がなるべく高い賃金で仕事を得ようとする「自由労働」とは相容れないものであった。西海岸ではしだいに中国人労働者排斥の動きが出始め、早くも1882年には中国人移民排斥法が成立する。これによってアメリカに向けての中国人移民は無くなり、19世紀末からそれにかわって日本人移民が急増する。すると、日露戦争後には日本人移民排斥運動が起こり、日本人移民は1924年の移民法で禁止される。)

(3)中国革命と華僑

19世紀末から清朝を倒す運動がおこると、華僑がその運動を支え、中国革命を達成する上で大きな力となった。

 華僑(南洋華僑)の中には満州人の支配を嫌って海外に移住した人々も多かったので、もともと反清感情があり、清朝末期の革命運動は孫文のようにまず華僑の中から起こった。19世紀にアメリカに移住した華僑の多くは苦力といわれる苛酷な労働に従事していたが、その中に成功して富を蓄えた人びとが、アメリカ社会での人種差別に遭遇して民族意識に目覚め、本国の清朝支配を倒す革命運動を支援するようになった。

アメリカでの華僑の増加と移民排斥の動き

 アメリカ合衆国への中国人の渡航は、18世紀の中国の人口爆発を背景に、北京条約で中国人の海外渡航が合法化されたことを契機として急増した。多くの華僑が太平洋を渡り、おりからのゴールド=ラッシュの金鉱採掘や、大陸横断鉄道の建設工事に従事した。彼らは移民といっても実態は苦力貿易といわれる半ば強制的に送り出され、借りた渡航費を返済するために厳しい労働に従事させられていた。しかし1870年代になると中国人労働者によって仕事を奪われたアイルランド系の下層労働者の中に、中国人移民排斥運動が起き、1882年に中国人移民制限法が成立した。

華僑によるアメリカ商品ボイコット運動

 中国人排斥は日露戦争後の日系人排斥と併せて「黄禍論」(黄色人種を警戒する風潮)として強まり、厳しく迫害されるようになった。このような中国人移民の窮状や華僑によって本国に伝えられ、1905年の広東に始まるアメリカ商品ボイコット運動となった。この年は清朝が科挙の廃止した年でもあり、官界への夢をたたれたエリート層もナショナリズムに目覚めていった。アメリカ商品ボイコットそのものは成功しなかったが、華僑と本土の中国人を結びつけるナショナリズムが高揚し、知識人がその先頭に立つという運動の構図が形成されることとなった。<菊地秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 講談社 p.125-129>

利権獲得運動の支援

 同時期の20世紀初頭、清末の中国で利権回収運動が起こったのも中国の民族資本家の成長と、ナショナリズムの高揚が背景にあった。その運動の資金も広く各地の華僑が支援することで活発となり、四川暴動を呼び起こして辛亥革命へと展開していく。

(4)現在の華僑

 華僑は全世界にわたってひろく存在し、各地で経済的、文化的、そして政治的にも重要な存在となっている。現在の全世界の華僑の実勢はおよそ2500万人、その分布は東南アジアに約2100万人、アメリカに約100万人、カナダに約45万人、南米に約30万人、ヨーロッパに約40万人、オーストラリアに約30万人と言われる。各地の華僑は、中国の出身地(福建や広東など)ごとにグループごとの居住地で協力しながら独自の社会を建設し、時として現地人と激しい競合を演じながら、その勤勉さによって成功を遂げる人も多く、その地の経済に大きな影響力を持つようになった。現在はシンガポール、マレーシアでは華僑の存在が特に重要になっている。また移住して数世代を経た華僑(特に華裔とも言われる)は、各地で経済的に重要な存在となっていった。<斯波義信『華僑』岩波新書 1995 などによる>