ハルタール
1919年4月、ガンディーが反英闘争の中で指導した、インドの全国的な同盟休業。第1次非暴力・不服従運動(サッティーヤグラハ)の主要な戦術となった。
1919年、ガンディーはイギリスのローラット法制定に抗議して不服従、非暴力による抵抗運動を開始、4月6日を「サティヤーグラハの日」と定めて、全国的は「同盟休業=ハルタール」を指令した。ハルタールとは本来、「喪に服するために店を閉じ、断食をして身を浄め、祈りを捧げること」で、インド人の生活ではしばしば守られてきた行事であった。
しかし、あちこちで警官隊による発砲や棍棒の雨の襲撃を受けた民衆は、ついに非暴力の限界を超え、パンジャーブ地方のアムリットサール事件などの悲劇が起きてしまう。
ローラット法反対で一日罷業
「ガンディーはこれを政治の手段に持ち込んだのである。それは、丁重にローラット法を“葬ってやろう”というガンディー一流の機知から生まれたのかもしれない。・・・その日は全国一斉に商店を閉じ、工場を閉鎖し、学校を休校にして集会が催されることになった。このようにガンディーはつねに民衆の言葉でものを考え、民衆の生活に密着したなにげない日常の所作を無限の政治力へと変えたのである。4月6日が来た。同盟休業(ハルタール)は都市でも農村でも完全に守られた。インド史上、はじめて農民や下層労働者が一斉に政治の舞台に呼び出されたのである。」<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.111-112>ガンディーの思いつき
ローラット法が発布されたという報道を受け取ったその夜、ガンディーは問題を考えながら眠ってしまった。夜明けちょっと前に目を覚まし、夢うつつの状態にあったとき、突然考えが浮かんだ。その一部始終を会議派の同志ラージャーゴーパラチャーリに伝えた。(引用)昨夜夢のなかで、わたしは各地に一斉休業(ハルタル)を呼びかけたらよい、という考えが浮かんできました。サッティヤーグラハは自己浄化の過程だし、私たちのは神聖な闘いです。それは、自己浄化を行うことをもって始めるのが、事柄の本質上目的に合うように見えます。だから、全インド人に、その日は仕事を停止させて、その一日を断食と祈りの日として守らせようではありませんか。イスラム教徒は、断食を一日以上続けるのを許されていないので、断食の時間は、24時間をしたらいいでしょう。各州全部が私たちの訴えにこたえてくれるかどうか、はっきり言うことはむずかしいけれども、わたしは、ボンベイ、マドラス、ビハール、それからシンドはかなり確実だと思っています。もしこれらの地方全部が、一斉休業を適当に実行してくれさえすれば、満足していいのじゃないか、と思います。」<ガンディー/蝋山芳郎訳『ガンディー自伝』1983 中公文庫 p.393-394>この提案は受け入れられ、始めは1919年3月30日と定められたが、のちに4月6日に変更になった。わずかな予告期間しかなかったが、ただちに始めなければならなかった。当日はインドの町といわず村といわず、ことごとく一日休業が行われた。
しかし、あちこちで警官隊による発砲や棍棒の雨の襲撃を受けた民衆は、ついに非暴力の限界を超え、パンジャーブ地方のアムリットサール事件などの悲劇が起きてしまう。