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アムリットサール事件/アムリットサール

1919年、ローラット法に反対したインド民衆にイギリス軍が発砲し虐殺した事件。第一次世界大戦後の自治実現の約束が守らないことからインド民族運動が活発になると、イギリスはローラット法を制定、ガンディーらを逮捕した。アムリットサルで抗議に立ち上がった民衆に対してイギリス警官隊が発砲、多数の死傷者が出た。非暴力の運動はいったん後退したが、20~30年のインド独立運動が高揚する契機となった。なお、アムリットサルはシク教総本山の黄金寺院があり、たびたび宗教対立の現場となった。

 イギリスが第一次世界大戦後にローラット法を制定し、インドの民衆運動の取り締まりを強化したのに対し、インド各地で激しい反対運動が起こった。このころ運動の指導に乗り出したガンディーは、非暴力・不服従運動(第1次)を呼びかけ、1919年4月6日には全国でハルタール(同盟休業)が実行された。

民衆の反英暴動起きる

 それに対してイギリス当局は暴力をもって弾圧に当たり、一部では民衆も反撃し、暴力事件に転化してしまった。特にパンジャーブ地方のアムリットサールやラホールでは暴徒が銀行や郵便局に放火し、イギリス人を殺害するという事件が起こった。ガンディーはこの暴走を抑えようとパンジャーブに向かったが途中で逮捕されてしまった。1919年4月13日、ガンディー逮捕に憤激したアムリットサールの民衆は、ジャリヤーンワーラー公園に集会禁止にもかかわらず2万人が結集して抗議をはじめたが、それに対してダイヤー将軍の指揮するイギリス軍(ネパール人のグルカ兵が動員された)が無防備の群衆に発砲し、379名を殺害、多数の負傷者を出した(会議派の調査では死者1200名、負傷3600名)。この事件はインド民衆に決定的な反英感情を植え付けることとなったが、ガンディーは非暴力の抵抗が貫徹できなかったことに衝撃を受け、みずからの指導の過ちを認めて、一旦運動を停止した。

運動を転換させた大虐殺事件

(引用)出入り口の一つしかない公園に軍隊と機関銃を配し、高い塀をよじ登って逃げようとする人々に‘弾がなくなるまで’撃ち続けた行為は、イギリス人の残虐さを象徴するものとしてインド人を震え上がらせ、また憤激させた。つづいてパンジャーブに戒厳令が敷かれ、無差別逮捕、公開鞭打ちなども行われているのに、何が起こっているのか他州に極秘にされたことも、イギリスへの不信となった。・・・この事件を‘英印関係史の転換点’と見る人は多い。・・・さらにこの処理をめぐるイギリス人の態度も、インド人の神経を逆撫でした。たとえばこの事件の責任者ダイヤー将軍には‘帝国の功労者’として一般人からつのった2万ポンドが贈られたのであった。<長崎暢子『ガンディー』1996 現代アジアの肖像 岩波書店 p.132-133>
インド民族運動の転換 第一次世界大戦後、イギリスはインドの戦後自治約束などの改革というアメと、ローラット法というムチによってインド民族運動に対応する政策をとったが、このアムリットサール事件で完全に失敗した。インド民族運動は「虐殺抗議」を旗印として全インド的な展開を見せることになった。まず、それまでの知識人の親英的改革派が主流だった国民会議派が、民衆的な基盤を持った行動的な運動体に転換した。その新たな指導者として登場したのがガンディーであった。この年12月に開催された国民会議大会はアムリットサールで開催され、ガンディーがその主導権を初めて握った大会となった。また、ガンディーはインドの独立にとって宗教対立の克服が必要であると考え、ヒラーファト運動でカリフ擁護をかかげ、イスラーム教徒との共闘を主張していた。翌1920年9月のカルカッタ国民会議臨時大会にはカリフ擁護運動の代表者も加わり、1857年のインド大反乱以来途絶えていたヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の共闘がじつげんした。<長崎暢子『前掲書』p.133-137>
世界史の中のアムリットサール事件 1919年4月13日のインド、アムリットサールにおけるイギリスによるインド人に対する虐殺事件は、インドの民族運動を、自治をもとめる穏健な請願運動から、完全な独立を求める運動へと転換させ、インド民族運動のシンボル的なできごととなった。それはまた、アジア全体における民族運動の高揚と時を同じくしていた。この年の先月、1919年3月1日には、朝鮮で日本の植民地支配に対する三・一独立運動が起こった。さらに翌月の1919年5月4日に中国で日本帝国主義に対する抗議行動である五・四運動が起こっている。イギリスは本国のすぐ近くの植民地アイルランドでもアイルランド独立戦争に対応しなければならなかった。コレラはいずれも直接繋がっている運動ではないが、帝国主義下の民族運動として共通の意義を持っている。

Episode ガンディーの「ヒマラヤの誤算」

 ローラット法が施行されたことにガンディーは大きな衝撃を受け、ただちに民衆に一斉休業(ハルタール)を呼びかけた。それは一日の仕事を休んで断食することでイギリスに抗議しようとするもので、デリーを始め各地で実行された。イギリスはガンディーを危険人物として逮捕した。その報が伝えられると各地で抗議デモが広がり、ボンベイでも衝突が起こり、アムリットサールではついに多数の死者がでた。ガンディーは、この事態に、自らのサティヤーグラハ運動が十分理解されていないことを知り、自分が重大な間違い-彼はそれを「ヒマラヤの誤算」と呼んだ-だったと気づいた。なぜそれが誤算だったのか、自伝で彼の言っていることはこういうことである。
(引用)考えてみると、早すぎた非服従運動のようにわたしにはみえたからであった。・・・人が非服従運動の実践に適するようになるには、その前に、国家の法律に積極的かつ尊敬をこめてた服従を行っていなければならなかった。たいていの場合、私たちは、法律に違反すると罰せられる恐れから法律に服従している。・・・けれどもこのような服従は、サッティヤーグラハに要請されている積極的自発的な服従ではない。サッティヤーグラハ運動者は社会の諸法律をよく理解し、そして彼自身の自由意志からそれに服従する。それはそうすることが、彼の神聖な義務だと考えているからである。このように一人の人が社会の諸法律に忠実に服従しているときに初めて、彼はどの特定の法律が善で公正であるか、そしてどれが不公正で邪悪であるかについて、判断を下すことができる。そのときになって初めて、はっきりと規定された状況のもとに、ある法律に対して非服従を行う権利が生まれるのである。わたしのあやまちは、わたしがこの必要な限定性を守らなかったところにある。<ガンジー『ガンジー自伝』 中公文庫 p.406-408>

アムリットサルの黄金寺院

アムリットサル GoogleMap

 インド・パンジャーブ州のアムリットサルは、シク教の総本山である黄金寺院がある。シク教は16世紀初め、ラホールを拠点として、ナーナクが創始したヒンドゥー教改革派から起こった宗派で、その聖典『グル・グラント』が1604年8月16日に編纂が終わって完成し、アムリットサルのハルマンディルという聖堂に納められた。それ以来、この聖堂はシク教の聖地とされ、第4代グル(ナーナクの後継指導者)ラーム・ダースの時に建造が始まり、1601年に完成した。ハルマンディルはヒンドゥーとイスラームのデザイン両方を参考に建てられており、1799年にシク王国を築いたランジット=シングは建物に金箔をほどこし、ゴールデン・テンプル(黄金寺院)と言われるようになった。<コウル=シング/高橋尭英訳『シク教』1994 シリーズ世界の宗教 青土社 p.58>
 シク教の祈りの場をグルドゥワーラーという。グルドゥワーラーとは究極の解脱への「門」を意味し、四つの扉はすべてのカーストの人たちを歓迎することを表している。内部には祭壇とか特に聖なる場所というものはない。台の上に乗せられた『グル・グラント』が周囲の目を引くだけで、“絶対真理”を何らかの姿形で具象化した銅像や絵などはない。椅子やベンチもなく、会衆は床に敷かれた大きな待ったの上に、伝統にしたがって男女別々に座る。
 ハルマンディル、すなわちゴールデン・テンプルは、シク教の中心的なグルドゥーワーラーとして信徒らに崇められている。シク教のさまざまな儀礼・儀式が、そこで形成された。グル=ラーム=ダースが1577年に貯水池をつくり、アムリトサル(甘露の池)と名付けた。アルジャンがグルの座を継承したとき、彼は聖堂を聖なる池の中に立てさせたのだ。
黄金寺院

黄金寺院 Wikimedia Commons

(引用)聖堂のまわりに広がっていった、数多くの混雑した狭い路地が入り組んだアムリトサルの町の中で、日の光を眩いばかりに反射する貯水池は、あたかも平和なオアシスのように横たわっている。池は、その四辺を広い大理石の通路で囲まれ、その通路は白い大理石でできた数階建ての柱廊で囲まれ、その四辺には門が配されている。建物の上半分は金メッキが施された銅板で覆われており、そのために黄金寺院という名が与えられた。建物の南側には池に出る階段がある。参詣者は、池の水を汲むためにこの階段を降りる。彼らは、特に病気の者は、水を飲んだり、自らの身体にその水をふりかけたり、友人や親戚の者たちのために家に持って帰るべく池の水を瓶に満たしたりするのである。・・・・・・<シング『前掲書』 p.149->

第二のアムリットサル事件

 アムリットサルは、インド独立運動の起点となった1919年のアムリットサール事件が起きたところでるが、第二次世界大戦後インドにおいても、再び騒乱の地となった。それは戦後長く政権の座にあった国民会議派インディラ=ガンディー政権(ネルーの娘。ガンディーとは血縁関係はない)は、パンジャーブ州のシク教教徒が自治権を要求したことに対し厳しく弾圧すると、1980年代になる運動が過激化し、無差別のテロを起こすようになった。シク教徒の総本山であるアムリットサールゴールデン=テンプルは急進派の拠点となっているとして、インディラ=ガンディー政権は、1984年6月5日にテロ壊滅を掲げてゴールデン=テンプルに軍を突入させ、それによってシク教徒300人、政府側90人が死亡するという大事件になった。それによってシク教団の自治要求は抑えられたが、シク教徒の報復が決行され、その年の10月、首相はシク教徒の護衛兵に射殺された。この事件で国民会議は政府の対応の悪さが批判され、インドの政権交代へとつながっていった。 → インド(現代)