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ローラット法

第一次世界大戦後後の1919年に施行されたイギリスによるインド民族運動弾圧法。

 1919年3月にイギリスがインドで制定した、逮捕状なしに逮捕し、裁判なしに投獄できる権限をインド総督に与えた法律で緊急刑事特別法。一種の治安維持法とも言える。イギリスは、これによって第一次世界大戦中に高まってきたインド国民会議派を中心とするインドの反英闘争を抑えつけようと考えた。ローラットはイギリスから治安状態の調査のためインドに派遣され、この法律を作成した人物の名。1918年夏、原案が発表されるとインド民衆は激しく反発、国民会議派は穏健派が多数を占めていたが、直ちに抗議の声を上げた。イギリス政府は反対の声を押し切って、1919年3月にインド議会に法案を提出、インド人議員全員が反対投票したにもかかわらず、強引に押し切って成立させた。

ガンディー、抗議に起ち上がる

 第一次世界大戦の大戦中には「民族自決」の原則がアメリカ大統領ウィルソンによって提唱された。また、イギリス自身も1917年8月にモンタギュー宣言を出し戦後自治の約束していたので、多くのインド人が自治の実現に大きな期待を寄せていた。にもかかわらず、1919年末に定められたインド統治法では、自治の約束は地方政治のみに限定されたため、インドの多くの人の期待は裏切られた。さらにこのローラット法によって基本的な人権が奪われることになった。そのようなイギリスの姿勢に激しい憤りを感じたインド人の前に現れた新たな指導者がガンディーであった。南アフリカでサティヤーグラハを掲げてインド人に対する差別と闘ったガンディーは、帰国後は政治活動よりは農民や労働者の運動を支援していたが、ローラット法案に対して次のように語り、対決を表明した。
「これらの法案が法律になった場合、そしてそれらが撤回されるまでは、われわれは市民として、これらの法律に、また今後任命される委員会が適当と見なす他の法律にも従うことを拒否する。われわれはさらに、この闘争において、忠実に真理に従い、生命・個人・財産に暴力を振るうことはしないだろう。」<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.111>
 これは、ガンディーのサティヤーグラハ(真理の把握)の思想に基づく、不服従・非暴力によるイギリスへの闘争宣言であった。同年4月6日を「サティヤーグラハの日」と定め、全国的なハルタール(同盟休業)を指令、商店は営業をやめ、工場は操業を停止、学校は休校して集会を開いた。インド史上最初の、都市も農村も、ヒンドゥー教徒もムスリムもイギリスに対する抗議という政治目標で一致し、整然と行動が実現した日であった。こうして1919年4月、第1次非暴力・不服従運動が開始された。

アムリットサール事件

 このような整然としたインド民衆の抗議行動に対して、イギリス当局は激しい暴力的な弾圧を加えた。ガンディーは強く非暴力による抵抗を呼びかけたが、パンジャーブなど一部では民衆が反撃して暴動となり、イギリス人警官が殺害された。ガンディーは暴動を抑えようとパンジャーブに向かおうとしたが、デリーで逮捕された。ガンディー逮捕の知らせがパンジャーブに伝えられると民衆は激高し、4月13日、パンジャーブでアムリットサール事件が起こった。
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