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パン=アフリカ会議

1900年のロンドン、1919年のパリで開催された、アフリカの解放をめざしアフリカと北アメリカやカリブのアフリカ系黒人が結集して開催した会議。パン=アフリカニズムの運動を進めた。

 帝国主義諸国によるアフリカ分割が進行し、植民地支配下で諸権利を奪われていたアフリカの黒人の解放のために、カリブ海域やアメリカ大陸の黒人が連携して運動を進めようとして開催された国際会議。1900年にロンドンで開催されたパン=アフリカン会議(カンファレンス)と、1919年のパリで開催されたパン=アフリカン会議(コングレス)との二つの潮流がある。後者はその後も数回にわたって開催される。これらのアフリカ全土の解放をアフリカ以外にも広がったアフリカ系黒人の問題と捉えようとする新たな潮流をパン=アフリカニズムという。

1900年 ロンドンでの会議

 1900年にロンドンで開催されたパン=アフリカ会議(カンファレンス)は、カリブ海のイギリス領トリニダード(現トリニダードトバゴ)出身の黒人で弁護士のシルベスター=ウィリアムズが招集した。この会議では植民地支配そのものについては現状の枠内での改革を求めるのみであったが、北アメリカ、カリブ、アフリカの黒人知識人が初めて一堂に会し、ヨーロッパの人種主義と南アフリカでのイギリスの侵略(南アフリカ戦争)に対する抗議の声を上げた。この会議は継続されなかったが、パン=アフリカニズムの最初の動きであった。

1919年 パリでの会議

 パン=アフリカニズムの運動を最初に組織的に行ったのは「パン=アメリカニズムの父」といわれるデュボイスだった。デュボイスはアメリカ黒人として初めてハーバード大学から博士号を得、1903年、その著書『黒人のたましい』で「20世紀の問題はカラーラインの問題である」と喝破した。1919年、アメリカ合衆国の白人自由主義者を中心に結成された黒人差別撤廃運動組織「全米黒人向上協会」から派遣されてパリに赴き、第一次世界大戦のパリ講和会議でアフリカ人とアフリカ系の権利を擁護しようとしたが目的を果たせなかった。そのためデュボイスは急遽フランス首相クレマンソーの援助を取り付け、第1回のパン=アフリカ会議(コングレス)を開催した。急ごしらえだったので十分ではなかったが、北アメリカ・カリブ・アフリカから57名の代表が参加し、アフリカ人保護のための国際法の整備、土地・資源の信託、外国資本による搾取の規制、奴隷労働の禁止、公費による教育の普及、段階的な自治の推進を求める決議が採択された。
 デュボイスはその後もパン=アフリカ会議を、第2回を1921年、ロンドン・ブリュッセル・パリで順次開催、第3回を1923年、ロンドン・リスボン、第4回を1927年、ニューヨークで開催し、アフリカ人とアメリカのアフリカ系との統一戦線をつくろうと努力し、その後のパン=アフリカニズムの運動の発展の基礎を作り上げた。<宮本正興・松田素二『改訂新版新書アフリカ史』2018 講談社現代新書 p.493-500>
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宮本正興・松田素二編
『改訂新版新書アフリカ史』
2018 講談社現代新書