パン=アフリカニズム
1900年に始まった、アフリカの黒人の解放をアフリカ全土の課題として捉え、さらに北アメリカやカリブ海域のアフリカ系黒人とともに運動を進めようという思想。第二次世界大戦後の1960年のアフリカ諸国の独立につながった。
帝国主義時代に、エチオピア・リベリア・南アフリカ連邦を除くいてアフリカ分割が進み、黒人は無権利と厳しく搾取される状態に置かれた。同じアフリカ系民族でありながらかつて奴隷としてアメリカ大陸やカリブ海行きに運ばれた黒人たちは、奴隷身分からの解放は進んだが、同じく差別と貧困に苦しんでいた。そのような北米大陸やカリブ海行きの黒人の知識人の中から、アフリカの解放を自分たちの問題として捉え、連帯することによって克服していこうという運動が、19世紀末から起こってきた。それらの動きを具体化させたのが、パン=アフリカ会議の開催であり、まず1900年にロンドンで開催された。この会議は南アフリカ戦争への抗議などを決議したが、組織としては定着できなかった。
デュボイスはその後の数回にわたるパン=アフリカ会議を開催し、「パン=アフリカニズムの父」といわれた。この運動は、白人の人種主義に対する黒人の平等と権利を主張する国際的な運動として続いたが、あくまで自治の要求にとどまり、国際連盟の委任統治の枠を出ることはなく、独立要求には踏み込まなかった。しかし、アフリカ人のナショナリズムが高揚してくると運動は次第に変質していった。
パン=アフリカ会議は世界恐慌の影響で資金難となったこともあり、1927年の第4回以降は活動を停止していたが、1935年にイタリアのエチオピア侵攻(併合)がはじまると、アフリカの自由の最後の砦とみなされていたエチオピアを支援するため「国際アフリカ人アビシニア友の会」がロンドンで設立された。ケニア出身のケニヤッタ も参加した。
デュボイスの指導
ついで、第一次世界大戦後の民族自決の気運の高まりを受けて、1919年にパリ講和会議に合わせてパリで開催された。この会議を招集したアメリカ黒人のデュボイスは、奴隷解放宣言や憲法修正14条、15条の制定後も続いていた黒人差別に対して戦ってきた人物で、アメリカでの黒人の本質的な解放を勝ち取るために国際的な世論を高めようとしてパリに来ていた。かれはパリ講和会議には出席できなかったが、この地でアメリカだけでない、アフリカとカリブ海諸国の黒人と連帯して会議を開くチャンスを得た。デュボイスはその後の数回にわたるパン=アフリカ会議を開催し、「パン=アフリカニズムの父」といわれた。この運動は、白人の人種主義に対する黒人の平等と権利を主張する国際的な運動として続いたが、あくまで自治の要求にとどまり、国際連盟の委任統治の枠を出ることはなく、独立要求には踏み込まなかった。しかし、アフリカ人のナショナリズムが高揚してくると運動は次第に変質していった。
パン=アフリカ会議は世界恐慌の影響で資金難となったこともあり、1927年の第4回以降は活動を停止していたが、1935年にイタリアのエチオピア侵攻(併合)がはじまると、アフリカの自由の最後の砦とみなされていたエチオピアを支援するため「国際アフリカ人アビシニア友の会」がロンドンで設立された。ケニア出身の
植民地独立要求に転換
1945年にイギリスのマンチェスターで開催された第5回パン=アフリカ会議では、初めてアフリカ人代表が多数を占め、主導権をアフリカ人が握ることとなり、ナショナリズムの側面が強くなって、この会議の宣言で初めて植民地アフリカの独立要求が打ち出され、植民地解放のためには武力を行使する可能性も認められた。この会議には後にガーナの独立を指導するエンクルマ(ンクルマ)も参加していた。<宮本正興・松田素二『改訂新版新書アフリカ史』2018 講談社現代新書 p.493-500>