アフリカ民族会議/ANC
南アフリカ連邦でアパルトヘイトの撤廃を求めて組織された。激しい弾圧を受けながら活動を続け、1991年にアパルトヘイト撤廃と民主化を勝ち取り、1994年に議長マンデラが南アフリカ共和国大統領となった。
南アフリカ連邦はケープ植民地のイギリス人が、オランダ系入植者のブール人(ボーア人、アフリカーナーともいわれた)の立てたオレンジ自由国、トランスヴァール共和国を征服し、1910年にイギリスの自治領として独立した。イギリス人・ブール人は支配階級を構成する白人として、現地のアフリカ人を一段と低く見て、支配していた。そのような人種主義に基づき、後にアパルトヘイトと一括していわれるようになる人種隔離政策を建国以来進めていた。
アフリカ民族会議の運動方針は、当初は非暴力による運動でアフリカ人の白人との平等を実現しようとするものであった。またその手法も1940年代までは、穏健な請願運動を基調としていた。しかし、第二次世界大戦後の1940年代後半から50年代にかけて、南アフリカ連邦のアフリカーナー系白人に支持された政府が、南アの工業化・都市化とともに増大する黒人労働者層の社会や政治への進出を恐れて、極端な人種隔離政策であるアパルトヘイトを強化すると、それに対する抵抗を実力で行うようになった。
一方、ANCを白人に協力的であると批判し、黒人だけの運動を標榜するロバート=ソブクウェらは脱退し、1959年にパン=アフリカニスト会議(PAC、パン=アフリカ会議とは別)を結成、黒人が携行を義務づけられている身分証明書(パス)に反対する全国的運動を展開した。パス携行を拒否した黒人はパス法違反で逮捕され、その数は60万人に上った。
1959年以来、政府は黒人をバントゥーと言い換え、彼らに「ホームランド」を与え、名目的な自治を与えるという「分離発展政策」をとった。これらのホームランドには軍事、外交を除く自治権が与えられ、白人政府は1960年代のアフリカの黒人国家の独立と同列に評価するよう求めたが、国際社会の中でホームランドを承認した国はなかった。
選挙の結果、ANCは有効投票の62.7%を獲得(それまでの与党国民党は20.4%にとどまった)し、比例代表制によって構成された議会によって、マンデラが史上初の黒人大統領に選出された。
アパルトヘイトに対する戦い
そのような人種隔離政策に対してその撤廃を要求した現地の黒人は、まず1912年に「南アフリカ原住民会議」を組織し、1923年にアフリカ民族会議(ANC)と改称した。会議というが実態はアフリカ人の解放と平等を目指す政治的組織、政党でもあった。その主要な担い手は、法律家、教員、聖職者、ジャーナリストなどの少数のアフリカ人エリート層であった。アフリカ民族会議の運動方針は、当初は非暴力による運動でアフリカ人の白人との平等を実現しようとするものであった。またその手法も1940年代までは、穏健な請願運動を基調としていた。しかし、第二次世界大戦後の1940年代後半から50年代にかけて、南アフリカ連邦のアフリカーナー系白人に支持された政府が、南アの工業化・都市化とともに増大する黒人労働者層の社会や政治への進出を恐れて、極端な人種隔離政策であるアパルトヘイトを強化すると、それに対する抵抗を実力で行うようになった。
マンデラの指導した大衆運動
1949年のANC大会でネルソン=マンデラら若い指導者が選出され、彼らは運動を穏健な請願路線から、大衆運動に転換させ、インドのガンディー(彼は1920年代、南アフリカで人種差別に反対するサティヤーグラハ運動を開始した)の影響を受け、インド人とも協力して不服従抵抗運動を開始した。彼らは白人専用の郵便局や駅に立ち入ったり、夜間外出禁止令を無視したりした罪で8000人を越える逮捕者を出した。1955年にはヨハネスバーグ郊外のソウェト地区でANCをはじめ多くの民主主義者や労働組合、共産党支持者などが集まり「人民会議」を開催し、「南アフリカは、黒人、白人を問わず、そこに住むすべての人々に属する」という文言ではじまる「自由憲章」を採択した。それに対して南ア連邦政府は群衆を解散させ、翌年、156人の中心的活動家を国家反逆罪で逮捕し、裁判にかけた。この裁判は5年に及び、運動はそのために停滞を余儀なくされた。一方、ANCを白人に協力的であると批判し、黒人だけの運動を標榜するロバート=ソブクウェらは脱退し、1959年にパン=アフリカニスト会議(PAC、パン=アフリカ会議とは別)を結成、黒人が携行を義務づけられている身分証明書(パス)に反対する全国的運動を展開した。パス携行を拒否した黒人はパス法違反で逮捕され、その数は60万人に上った。
非合法化される
1960年3月21日、PACの呼びかけでヨハネスバーグ郊外シャープヒルに集まった黒人群衆に対して警官が一斉射撃し67人が殺害されるという事件が起こった。その大部分は背後から撃たれており、怒りの抗議行動は全国に及んだ。政府は非常事態宣言を出し、ANCとPACを非合法とし、1万人を超える人を逮捕した。ANCとPACの指導者が武装闘争に着手したが拠点を警察に襲撃され、壊滅状態となった。潜行していたマンデラも62年8月に逮捕され終身刑の判決を受け、ロベン島(ケープ港の沖合にある監獄島)に幽閉された。こうして運動は冬の時代を迎え、その間、アパルトヘイト政策は都市部から農村部まで拡大された。1959年以来、政府は黒人をバントゥーと言い換え、彼らに「ホームランド」を与え、名目的な自治を与えるという「分離発展政策」をとった。これらのホームランドには軍事、外交を除く自治権が与えられ、白人政府は1960年代のアフリカの黒人国家の独立と同列に評価するよう求めたが、国際社会の中でホームランドを承認した国はなかった。
ソウェトの蜂起
1970年代には学生が運動の先頭に立つようになった。76年6月16日、ヨハネスバーグ郊外の黒人居住区ソウェトで、授業科目の半分をアフリカーンス語で教えようとする政府の決定に反発して、学生が立ち上がった。デモの最中に13歳の少年が警官に殺害されると抗議行動は全国に広がった。それに対しても政府は凶暴に弾圧し翌年2月までに少なくとも575人が殺害されたが、その多くは子供だった。その運動の指導者は若い医学生スティーヴ=ビーコであり、彼は差別政策の中で黒人自身が劣等感を持つようになっていることを憂い、1968年に南アフリカ学生機構(SASO)を結成し、黒人の劣等感からの解放を目指したちあがったのだった。彼は政治活動を禁止され、故郷のウィリアムズタウンで当局に監視されていたが、77年8月に逮捕され、9月12日に拷問の末に虐殺された。取調中、全裸にされ、奴隷のように足かせをされていたという。享年30歳であった。<峯陽一『南アフリカ 「虹の国」への歩み』1996 岩波新書 p.26>アパルトヘイトの終焉
南ア政府の反アパルトヘイト運動に対する弾圧は国際的な非難をわき起こした。ANC指導部も地下から武装闘争を指導し、各地で衝突が繰り返され、1986年には再び非常事態宣言が出された。この間、南ア経済は外国の経済制裁もあって急激に落ち込み、財界からも政府の頑迷な姿勢を批判する声が起こるようになった。動きがとれなくなった南ア政府では、それまで強硬姿勢を続けてきた国民党(NP)のボータ大統領が急死、52歳のデクラークが党首に選出された。デクラークは国民党の生き残りをかけて、大胆な政策転換に打って出て、1990年2月、ANC、PAC、共産党などを合法化し、マンデラを無条件で解放し、残りの政治犯も段階的に釈放した。さらに土地法、集団地域法、人口登録法などのアパルトヘイト基本法を撤廃した。マンデラ大統領になる
デクラークは「アパルトヘイトは終わった」と宣言したが、その狙いは、国民党を時流の変化に対応させつつ、少数派白人の権利を保護することにあった。91年12月に民主南アフリカ会議が開催されすべての主要政党が参加し、新体制への移行手続きの話し合いが行われた。しかし話し合いはまとまらず、各政党間の対立が表面化し、議会外ではネオナチ集団AWB(アフリカーナー抵抗運動)の武装グループが共産党指導者を射殺するなどの事件が起こったが、ANCは民主的な手続きによる選挙を主張し、マンデラとデクラークの間で合意が成立、ようやく1994年4月26日に総選挙が実施された。選挙の結果、ANCは有効投票の62.7%を獲得(それまでの与党国民党は20.4%にとどまった)し、比例代表制によって構成された議会によって、マンデラが史上初の黒人大統領に選出された。