デュボイス
アメリカ黒人解放運動の指導者。1909年、全米黒人地位向上委員会創設に参加。またアフリカの黒人の独立運動に関わり、1919年、第1回パン=アフリカ会議を開催し、「パン=アフリカニズム」の父と言われた。
・デュボイス William Edward Burghardt Du Bois 1868-1963 は、マサチューセッツで自由黒人の子として生まれ、ハーバード大学などで学び、ベルリン大学に留学、黒人としては当時の最先端のインテリゲンチャーとして黒人問題に関わるようになった。帰国後、南部のアトランタ大学で教鞭を執りながら、1903年に『黒人の魂』という著作を発表し、「20世紀の問題はカラーラインの問題である」と喝破し、差別される黒人の現実を直視することを主張した。『黒人の魂』では自らの生い立ちを小説風に物語ったり、ある章では南部の黒人社会のシェアクロッパー(分益小作人)の実態を社会学的な分析を加えるなど、現在も黒人運動の古典として読み継がれている。
1870年代の南部の再建期の終了とともに強まった黒人差別は、白人のクー=クラックス=クラン等による暴力的な様相を呈しており、それに対して黒人の中にブッカー=T=ワシントンに代表されるような、黒人自らが技能を身につけ白人に劣らない特性を養うことで差別を無くすという運動が起こっていた(1881年、アラバマ州タスキーギで始まったのでタスキーギ運動と言われた)。白人の中にもその運動に理解を示す者も増えていたが、デュボイスは白人のリンチが止まない中でそのような妥協的な考えで白人と協力することに強く疑問を感じ、ブッカー=T=ワシントンらの運動に強く反発した。デュボイスたちは、1905年にナイヤガラ瀑布に近いカナダのフォートエリで『ナイヤガラ宣言』を発し、一切の黒人差別に反対し、世論を喚起することで解放をめざすことを宣言した。この地はかつての南部から黒人奴隷が自由を求めて逃れてきた地下鉄道の終着駅にあたる場所だった。
しかし、第一次世界大戦の時期にアメリカの資本主義が高度化するに伴い、南部からの黒人の北部の工業都市への移住は急速に進み、北部の都市における黒人労働者の低賃金、生活苦が深刻化して社会不安が広がった。それは大都市における人種暴動の頻発という新たな事態を生み出すこととなり、NAACPの法廷闘争中心の運動では覆いきれない問題が多発するようになった。人種暴動(レイス・ライアット)は白人の暴力に対して黒人が同じように暴力で抵抗するもので、1919年のシカゴ暴動はミシガン湖で白人用水浴場に誤っていかだで入ってしまった黒人少年を、白人群衆が石の雨を降らせ溺死させてしまったことをきっかけに、シカゴ全市での13日に及ぶ衝突となり、白人15人、黒人23人が殺されるという人種戦争となった。<本田創造『アメリカ黒人の歴史新版』1991 岩波新書 p.151-159>
この会議には、北アメリカ・カリブ・アフリカから57名の黒人代表が参加し、アフリカ人保護のための国際法の整備、土地・資源の信託、外国資本による搾取の規制、奴隷労働の禁止、公費による教育の普及、段階的な自治の推進を求める決議が採択された。アフリカから離れたパリで結成された組織であるが、史上初めてアフリカの黒人が植民地の枠を越えて結束した国際会議として重要な意義のある会議であった。
パン=アフリカ会議はその後、第2回を1921年、ロンドン・ブリュッセル・パリで回り持ちで開催、第3回を1923年、ロンドン・リスボン、第4回を1927年、ニューヨークで開催した。デュボイスはそのいずれにも参加し、アフリカ人とアメリカのアフリカ系との統一戦線をつくろうと努力し、その後のパン=アフリカニズムの運動の発展の基礎を作り上げた。そのため、デュボイスは現在も「パン=アフリカニズム」の父と言われている。<宮本正興・松田素二『改訂新版新書アフリカ史』2018 講談社現代新書 p.493-500>
デュボイスが永眠した翌日、1963年8月28日に遠く離れたアメリカでワシントン大行進が行われ、公民権運動が最高潮に達した。デュボイスの死を知った黒人は、リンカーン記念館の前でその死を悼んで黙祷を捧げた。
その翌日、ガーナ国家葬が行われ、デュボイスは先祖が鎖で繋がれて運び去られたガーナ海岸からほど遠くないところに埋葬された。黒人の真の解放を追求した95歳の生涯だった。<戦後のデュボイスについては、デュボイス/木島始他訳『黒人のたましい』1992 岩波文庫 解説 p.424-426 などにより構成>
1870年代の南部の再建期の終了とともに強まった黒人差別は、白人のクー=クラックス=クラン等による暴力的な様相を呈しており、それに対して黒人の中にブッカー=T=ワシントンに代表されるような、黒人自らが技能を身につけ白人に劣らない特性を養うことで差別を無くすという運動が起こっていた(1881年、アラバマ州タスキーギで始まったのでタスキーギ運動と言われた)。白人の中にもその運動に理解を示す者も増えていたが、デュボイスは白人のリンチが止まない中でそのような妥協的な考えで白人と協力することに強く疑問を感じ、ブッカー=T=ワシントンらの運動に強く反発した。デュボイスたちは、1905年にナイヤガラ瀑布に近いカナダのフォートエリで『ナイヤガラ宣言』を発し、一切の黒人差別に反対し、世論を喚起することで解放をめざすことを宣言した。この地はかつての南部から黒人奴隷が自由を求めて逃れてきた地下鉄道の終着駅にあたる場所だった。
全国黒人向上協会を組織
この段階ではデュボイスは、運動は少数の指導者が率いると考えていたので、大衆運動に発展することなく、ナイヤガラ運動は4年ほどで停止してしまった。その失敗を踏まえ、デュボイスは運動には資金と組織が必要であると考え、1909年5月に全国黒人向上協会(National Association for the Advancement of Colord People NAACP)を結成した。この組織は白人の自由主義者が幹部となり、唯一の黒人であるデュボイスは調査部長として広報誌『危機(クライシス)』発行を担った。NAACPは裁判によるリンチの告発に力を入れ、法廷での黒人差別撤廃闘争に取り組み、黒人の社会的・政治的地位の向上に努め、アメリカ全体でもリンチに対する批判的な見方が一般化することに貢献した。しかし、第一次世界大戦の時期にアメリカの資本主義が高度化するに伴い、南部からの黒人の北部の工業都市への移住は急速に進み、北部の都市における黒人労働者の低賃金、生活苦が深刻化して社会不安が広がった。それは大都市における人種暴動の頻発という新たな事態を生み出すこととなり、NAACPの法廷闘争中心の運動では覆いきれない問題が多発するようになった。人種暴動(レイス・ライアット)は白人の暴力に対して黒人が同じように暴力で抵抗するもので、1919年のシカゴ暴動はミシガン湖で白人用水浴場に誤っていかだで入ってしまった黒人少年を、白人群衆が石の雨を降らせ溺死させてしまったことをきっかけに、シカゴ全市での13日に及ぶ衝突となり、白人15人、黒人23人が殺されるという人種戦争となった。<本田創造『アメリカ黒人の歴史新版』1991 岩波新書 p.151-159>
パン=アフリカ会議を組織
1919年、デュボイスはアメリカの「全米黒人向上委員会」から派遣されてパリに赴き、第一次世界大戦後のパリ講和会議でアフリカ人とアフリカ系の権利を擁護しようとした。しかし、講和会議への出席は認められず、目的を果たせなかった。デュボイスはやむなく、急遽フランス首相クレマンソーの援助を取り付け、パリで第1回のパン=アフリカ会議を開催した。この会議には、北アメリカ・カリブ・アフリカから57名の黒人代表が参加し、アフリカ人保護のための国際法の整備、土地・資源の信託、外国資本による搾取の規制、奴隷労働の禁止、公費による教育の普及、段階的な自治の推進を求める決議が採択された。アフリカから離れたパリで結成された組織であるが、史上初めてアフリカの黒人が植民地の枠を越えて結束した国際会議として重要な意義のある会議であった。
パン=アフリカ会議はその後、第2回を1921年、ロンドン・ブリュッセル・パリで回り持ちで開催、第3回を1923年、ロンドン・リスボン、第4回を1927年、ニューヨークで開催した。デュボイスはそのいずれにも参加し、アフリカ人とアメリカのアフリカ系との統一戦線をつくろうと努力し、その後のパン=アフリカニズムの運動の発展の基礎を作り上げた。そのため、デュボイスは現在も「パン=アフリカニズム」の父と言われている。<宮本正興・松田素二『改訂新版新書アフリカ史』2018 講談社現代新書 p.493-500>
マッカーシズムとの戦い
デュボイスは、第二次世界大戦の前後も、アトランタ大学で「黒人研究」の分野で学究生活を続け、1945年の国際連合創設会議ではNAACPを代表して陳述し、同年第6回のパン=アフリカ会議を開催しながら著作を続けた。1950年、朝鮮戦争さなかにソ連など共産圏を訪問、帰国後アメリカ労働党(アメリカの共産主義政党)の要請を受けて上院議員選挙に出馬しニューヨーク州で20万票を獲得した。しかし、当時はマッカーシズムによる「赤狩り」が全盛期で、51年にすでに83歳になっていたデュボイスも外国の代理人として告発され、手錠がかけられた。間もなく無罪放免となったが、デュボイスは黒人の支援が少なかったことに絶望し、国際平和運動に傾斜していった。アフリカに死す
1957年にはアフリカで独立を達成したガーナ共和国のエンクルマがデュボイスを師と仰ぎ、独立式典に彼を招待したが国務省は旅券を発行せず出席できなかった。ようやく翌58年に旅券を得たデュボイスはヨーロッパからソ連を再訪、さらにタシュケントと北京を訪問、61年には歴史小説3部作を完成させ、93歳で共産党に入党、ただちにエンクルマ大統領の招きに応じてガーナに向かった。ガーナではアフリカ百科事典の編纂に携わりながら、63年にガーナ市民となり、8月27日に永眠した。デュボイスが永眠した翌日、1963年8月28日に遠く離れたアメリカでワシントン大行進が行われ、公民権運動が最高潮に達した。デュボイスの死を知った黒人は、リンカーン記念館の前でその死を悼んで黙祷を捧げた。
その翌日、ガーナ国家葬が行われ、デュボイスは先祖が鎖で繋がれて運び去られたガーナ海岸からほど遠くないところに埋葬された。黒人の真の解放を追求した95歳の生涯だった。<戦後のデュボイスについては、デュボイス/木島始他訳『黒人のたましい』1992 岩波文庫 解説 p.424-426 などにより構成>