ドイツの再軍備/徴兵制復活/義務兵役制復活
1935年3月、ヒトラーのナチス=ドイツはヴェルサイユ条約の軍備制限に違反し、徴兵制を復活させた。
1935年3月16日、 ナチス=ドイツは徴兵制の復活(一般義務兵役制の導入)を宣言した。これは「ドイツの再軍備宣言」とも言われるもので、ヴェルサイユ条約に対する根本的挑戦であった。陸軍は総統ヒトラーの指揮下に従属するものとされそれまでのライヒスヴェアー(国防軍)の名は、ヴェアーマハト(防衛軍)の名に変えられた。また部隊の重装備化が図られ、装甲機械化師団の三個師団が出現した。ついで10月15日には、またもヴェルサイユ条約を無視して、陸軍大学が再開された。11月7日、1914年生まれの第一期が徴集され、59万6千人の若人が軍人として訓練されることになった。このようにしてドイツの軍隊は、少なくとも紙の上では一挙に、70万の精鋭に増強された。
また再軍備によってあらたに空軍が創設され、第一次世界大戦でパイロットとして活躍し、戦後、ナチ党のナンバーツーとなったゲーリングが空軍総司令官に就任し、その実戦経験をつむために1936年のスペイン戦争にフランコ将軍支援で介入し、ゲルニカ爆撃を行った。ゲーリングは1939年にヒトラーの後継者に指名され、40年には国家元帥の称号を与えられる。
英仏の対応
このナチス=ドイツのヴェルサイユ条約違反に対して、イギリス・フランス・イタリア三国の首脳は翌4月、イタリアのストレーザで会談し対策を協議、ドイツのヴェルサイユ条約違反に抗議する声明を発表した。この三国の提携はストレーザ戦線と言われ、ドイツの脅威に対抗するものとして期待されたが、イギリスが単独でドイツと英独海軍協定を締結したため足並みが乱れ、さらに10月、ムッソリーニのイタリアがエチオピア併合を強行したため1年も持たず解体した。一方フランスは同年5月、ソ連との間で仏ソ相互援助条約を締結したが、直接ドイツに出兵することはなかった。ドイツ軍需産業の成長
ドイツ国内では再軍備は国防軍の将官にはポストが増加するので歓迎され、また国民にとっては自衛権という国家主権の回復がなさえたことで支持され、また産業界には軍需産業の活況がもたらされ、経済復興につながることになった。ヒトラー政権の下での経済復興は多分にこの再軍備に伴う軍需産業の成長によってもたらされたのだった。またヒトラーは、この軍備を実際に試す機会として1936年にラインラント進駐を強行し、フランスを挑発したが、フランスはこの時も出兵しなかった。また再軍備によってあらたに空軍が創設され、第一次世界大戦でパイロットとして活躍し、戦後、ナチ党のナンバーツーとなったゲーリングが空軍総司令官に就任し、その実戦経験をつむために1936年のスペイン戦争にフランコ将軍支援で介入し、ゲルニカ爆撃を行った。ゲーリングは1939年にヒトラーの後継者に指名され、40年には国家元帥の称号を与えられる。
英仏が動けなかった理由
英仏がナチス=ドイツの再軍備を阻止できなかった背景には次のようなことも考えられる。(引用)再軍備が進行し、1935年3月16日、一般兵役義務制が導入され、翌年3月7日、ラインラントが再武装されたが、この二つの事件はヴェルサイユ条約違反であった。英仏などがこの条約違反行為に対して制裁を加えなかったのは、ドイツの生産力と軍事力がすでに英仏をしのぐいきおいであったので、世界戦争を覚悟しなければ、ドイツの行動を阻止できなかったためである。ドイツは名実ともにヨーロッパを圧倒するほどの大強国となり、この外交的成功によって国民のヒトラーに対する賛美の声が極端に高まり、国内にこれまでひろく存在していた非合法の抵抗運動は、この時以来国民的支持をまったく失って孤立化した。軍備の大拡張と経済の回復によって、1933年はじめには600万人を越えた失業者が大幅に減少した。<村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』1977 中公新書 p.258>