ラインラント
ドイツ領ライン川中流域は商工業の盛んな地域であるが、多くの領邦、都市にわかれていた。17世紀前半の三十年戦争では戦場となり、17世紀末にはルイ14世の侵略をうけた。1806年、ナポレオンがライン同盟を結成して保護下に収めたが、その没落後ウィーン会議でプロイセン領となった。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で非武装地帯とされたが、1936年にヒトラーがドイツ軍を進駐させ、第二次世界大戦への導線となった。
ラインラントの歴史
ラインラント Rheinland (ドイツ語発音に従いラインラントとする)はライン川中流両岸地帯を言い、ドイツ語を話すドイツ人が居住していた。古代ではガリア人とゲルマン人の境界にあり、ガリアを属州化したローマ帝国の辺境としてゲルマン人の侵入に備えていた。ゲルマン人の移動以降の中世ではフランク王国が統治、メルセン条約による分裂後、東フランクが成立して以来、現在のドイツにつながるドイツ領領であった。中世を通じ、キリスト教の布教とともにヨーロッパ文明の形成が進み、同時にライン川の水運の利用、ヨーロッパ東西の交易、南のアルプスを越えるルートとの交錯など、交通の要衝として商業が発達し、ケルン、マインツなどの都市が栄えた。この時期には神聖ローマ帝国に含まれていたが、16世紀に宗教改革が始まると、この地の封建諸侯も旧教・新教に分かれて対立し、17世紀前半には三十年戦争でラインラントも戦場となって荒廃した。ウェストファリア条約によってドイツは約300の領邦が分立することになって、ラインラントもファルツ選帝侯などの領邦国家に分割される状況が続いた。ルイ14世のラインラント侵攻
ところがフランスには古くからライン川までがフランス領であるという思想(自然国境論)があった。ブルボン朝絶対王政のもとで統一国家の形成が進み、国境線の拡張が図られるようになり、ウェストファリア条約でラインラントの西のアルザスを獲得し、さらに分裂しているラインラントへの野望を強めていった。1688年9月、ルイ14世はファルツ選帝侯の継承問題に介入してラインラント侵攻を開始、ファルツ戦争(アウクスブルク同盟戦争)となった。ラインラントはフランス兵の劫掠をうけ、1697年のライスワイク条約で停戦となり、フランスはストラスブール領有を確保した。ナポレオンの支配
ついでライン川までをフランス領とする野望を実行したのがナポレオンだった。1804年に皇帝に即位したナポレオンはプロイセン、オーストリアなど強国を次々とナポレオン戦争で倒し、1806年に神聖ローマ帝国に代わってライン同盟(連邦)を成立させて実質的な保護下に置いた。このときラインラントのマインツ大司教は連邦総裁となって連邦君主会議を運営し、ナポレオンに協力した。ナポレオンがロシア遠征に踏み切ると、ライン同盟諸国は6万3000の兵力を供出したが、そのほとんどはロシアの荒野で倒れ、故郷には戻れなかった。ラインラントのドイツ人はナポレオン支配によって大きな人的被害を蒙ったが、その一方でナポレオン法典の施行など、封建社会の打破、自由主義への転換などが図られ、同じドイツ人でもプロイセンなど東方のドイツ人と意識の違いが生まれたとも言われている。
プロイセン領ライン州となる
ナポレオン戦争後のウィーン会議の結果、1815年のウィーン議定書でラインラントはプロイセン王国領のライン州となった。これによってプロイセンは、炭田で有名なルール地方や、エッセン、デュッセルドルフ、ケルン、ボン、マインツなどの工業都市、古くからの商業都市が集中しているラインラントを獲得し国力を倍増させたが、従来は農業国であり、封建的社会が色濃く残っているプロイセンが、工業地帯であり自由主義思想の洗礼を受けたラインラントを統治することには相当の困難がともなっていた。経済、文化の面でドイツの先進地域であったラインラントではプロイセンの専制政治に対する自由主義・共和主義の運動とともに炭鉱・工場での労働運動も盛んになり、そのなかから社会主義思想も生まれた。1818年、ライン州トリーアで生まれたカール=マルクスは1842年からケルンで『ライン新聞』編集長となってプロイセン政府批判の言論活動を行い、発禁となったためパリにおもむきフランス社会主義と接触して、その共産主義思想を形成させた。ラインラントでは自由と平等の思想がひろがり、ユダヤ人の活動も多方面にわたって活発となり、詩人ハイネもその一人だった。
ヴェルサイユ条約による非武装化
19世紀後半、急速に大国化したプロイセンは、ビスマルクのもとで統一国家・軍事国家としての体制を作り上げることに成功、1870~71年の普仏戦争で勝利し、ドイツ帝国の樹立まで突き進んだ。並行して産業革命を進行させて、工業化をはかっていくが、ビスマルク失脚後のヴィルヘルム2世の世界政策は、イギリス・フランス・ロシアの帝国主義国家間の対立をもたらし、第一次世界大戦に突入した。この人類最初の世界戦争でドイツは敗北し、1919年6月に締結された講和条約のヴェルサイユ条約において、フランスのクレマンソーの強い要求により、ラインラントのライン川西岸(左岸)は15年間連合国軍(フランス軍など)が占領(保障占領)、ライン川東岸(右岸)の50kmは武装禁止(非武装地帯)とされた。「非武装地帯」にはドイツはいかなる軍隊もおいてはならず、軍事演習を行うことも許されなかった。さらに1925年には地域的集団安全保障条約であるロカルノ条約で、国境の不可侵が保証され、ドイツ、フランス、ベルギーは互いに国境を侵犯し、または攻撃しないことを約束した。こうしてラインラントはドイツ領でありながらドイツ軍が進駐できない地域、非武装地帯とされた。なお、ライン西岸の連合軍保障占領は、1930年に連合国軍が撤退しており、軍事的には空白になった。 → ヴェルサイユ条約でのドイツ割譲地
ラインラント進駐
1936年3月、ドイツがラインラントの非武装地帯に軍隊を進駐させ、ヴェルサイユ条約・ロカルノ条約を破棄した。フランスは対抗措置を執らず、ヒトラーの成功はその権威を高めることになった。
1936年3月7日、ドイツは突如、ラインラントの非武装地帯に軍隊を進駐させた。この地域はヴェルサイユ条約で非武装地帯と規定され、ロカルノ条約でも国境の非武装が保障されていたので、イギリス・フランスなど各国はドイツの条約違反を厳しく非難した。
ヒトラーは同日正午に国会で演説し、ラインラント進駐の理由を、フランスが1936年2月、仏ソ相互援助条約を議会で批准して同条約が成立したことをあげた。ヒトラーは同条約をドイツに敵対する事実上の軍事同盟であり、ロカルノ条約違反であると非難、ロカルノ条約は解消されたとして、ドイツはラインラント非武装を遵守する義務から解放されたと述べた。また、フランスが共産主義=ボリシェヴィズムと提携したことを激しく批判した。
当時は国際社会はイタリアのエチオピア侵攻(エチオピア戦争)が問題となっていたがイギリス・フランスはそちらにたいしても断固とした態度を示さないでいたので、ヒトラーはラインラント進駐に対しても英仏は強く出てこないだろうと判断していた。1935年3月のドイツの再軍備と同様、ヒトラーは強気の賭に出たのだった。事実、英仏はヴェルサイユ条約違反に対して直ちに抗議はしたものの、戦争に訴えることは出来ず、傍観するだけであった。
こうしてヴェルサイユ体制とロカルノ体制によるヨーロッパの国際秩序は崩壊した。
ヒトラーは同日正午に国会で演説し、ラインラント進駐の理由を、フランスが1936年2月、仏ソ相互援助条約を議会で批准して同条約が成立したことをあげた。ヒトラーは同条約をドイツに敵対する事実上の軍事同盟であり、ロカルノ条約違反であると非難、ロカルノ条約は解消されたとして、ドイツはラインラント非武装を遵守する義務から解放されたと述べた。また、フランスが共産主義=ボリシェヴィズムと提携したことを激しく批判した。
当時は国際社会はイタリアのエチオピア侵攻(エチオピア戦争)が問題となっていたがイギリス・フランスはそちらにたいしても断固とした態度を示さないでいたので、ヒトラーはラインラント進駐に対しても英仏は強く出てこないだろうと判断していた。1935年3月のドイツの再軍備と同様、ヒトラーは強気の賭に出たのだった。事実、英仏はヴェルサイユ条約違反に対して直ちに抗議はしたものの、戦争に訴えることは出来ず、傍観するだけであった。
こうしてヴェルサイユ体制とロカルノ体制によるヨーロッパの国際秩序は崩壊した。
ヒトラーの大きな賭
ヒトラーがドイツ国防軍をラインラントに進駐させるとヴェルサイユ条約・ロカルノ条約違反となるので、フランス及びその支援国がただちに反撃することが想定された。そのため国防軍の幹部や外交官は強く反対した。ヒトラーは一人、フランス・イギリスには開戦の決意ができないと直感で判断し、反対を押し切って進駐を実行した。しかし、ヒトラー自身にとっても大きな賭であった。ヒトラーもフランス軍の反撃を想定して、3万の軍隊をラインラントに入れたものの、実はその大部分はライン右岸(東側)にとどまり、左岸に進駐したのはわずか3千にすぎなかった。最前列の部隊はフランスとの衝突が生じた場合は1時間以内に撤収することを命じられていた。Episode ヒトラー、24時間の緊張
ラインラント進駐に踏み切ったときのヒトラーを間近で見ていた証言がある。(引用) ナチスの新聞部長ディートリヒはこの時のヒトラーの様子を次のように書いている。「その日ずっとヒトラーはパリとロンドンとの反応がどうであるかを緊張して見守っていた。彼は24時間、48時間待っていた。なんら干渉が起こらなかった時、彼は救われたと、息をついた。彼はのちにいった。この段階は彼の勇気の証明であったと。彼は最高の賭けをした、そして勝ったのである。政治的未来はバラ色に見えた」。また、ヒトラー自身はのちに「ライン進駐後の48時間は自分の人生でももっとも興奮した時間であった。当時、もしフランス軍が進入していたら、われわれは恥をかいて引き下がらなければならなかったであろう。というのは、われわれの使用できる軍事力は多少の抵抗を行うにも不十分であったからだ 」。<齋藤孝『戦間期国際政治史』岩波現代文庫 旧版 p.204>
フランスの勘違い
(引用)しかし、フランスの諜報活動は、ナチ突撃隊やそのほかナチ組織に所属するメンバーを誤って兵士に数え入れて、ラインラントに入った軍隊を30万近いものと推定していたという。実際には、フランスの一個師団の兵力によってヒトラーの冒険を終息させることができていたことであろう。それは、総統ヒトラーの威信にたいして決定的な打撃をあたえ、それ以後のヨーロッパ政治史やユダヤ人の運命も、確実に別なものになっていたはずである。<宮田光雄『ナチ・ドイツと言語』2002 岩波新書 p.21-22>
ヒトラー神話
(引用)ラインラント進駐は、ヒトラーにとって、どんなに過大に評価しても、けっしてすぎることはないほどの大勝利だった。彼の自信は無限大にまで膨張した。ヒトラーは「この時点から、自分自身でも指導者崇拝を確信するに至った。・・・彼は、自分を摂理によって選ばれた者とみなした」とケルショウは(『ヒトラー伝』で)断定している。<宮田光雄『同上書』 p.21-22>ドイツの再軍備とラインラント進駐は、大方の想定に反してイギリス・フランスの反撃を呼び起こさず、易々と実現されたため、ヒトラーは神がかり的な成功を収めたと国民は驚嘆し、当初はヒトラーの冒険的な外交に批判的だった国防軍もヒトラーに一目置かざるをえない状況となった。ヒトラー自身もおのれの指導者としての力量には神秘的なものがあると自覚するようになった。ラインラント進駐直後の3月14日の演説では次のように言っている。
(引用)どんな威嚇も警告も、私を私の道から脇へそらせることはないであろう。私は、夢遊病者のような確実な足取りで、摂理が私に命ずる道を歩んでいく。・・・われわれは、ヨーロッパの列強の一つであり、列強として評価されることを欲する。<宮田光雄・同上書 p.22>
ラインラント進駐の影響
またその国際政治に与えた影響も多方面におよんだ。特にラインラント非武装が崩れたことはフランスの軍事的優位が崩れたことを意味し、次のような深刻な影響を与えた。(引用)ドイツのラインラント進駐がもたらす国際政治的意義は巨大なものがあった。ラインラントが非武装であるかぎりは、フランスはその軍隊を容易にドイツへ進駐させることができ、そのような軍事的地位にあることによって、フランスはドイツが東方へ行動を起こすことを強力に抑制することができたのであった。そして、実にこのことがフランスと小協商国(チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラビア)およびポーランドとの提携に強力な軍事的裏付けを与えていたのである。ところが今、ドイツのラインラント進駐に対してフランスがこれをむなしく傍観したとき、これら諸国に対するフランスの威信は甚だしく失墜したばかりでなはない。・・・上記のフランスの与国は、もはや頼みがたくなったフランスの援助を仮定してドイツに一義的に対立するよりも、むしろ今後はドイツとの国交を調整することにより自国の安全を保とうとするようになるのである。・・・<岡義武『国際政治史』1955 再刊 2009 岩波現代文庫 p.232>
ヒトラーの権威の確立
ヒトラーは3月29日、ドイツ軍のラインラント進駐の可否を問う国民投票を実施し、98.8%の支持を受けている。そして再軍備に続いてフランス、イギリスが何もせず(できず)、ヒトラーの強硬な外交政策が成功したことによって、その国民的支持を不動のものになった。しかし、ヒトラーはすぐに侵略戦争を開始したのではなかった。36~37年はいわば戦争準備期間であり、軍備の増強とその戦闘力のテストの意味でスペイン戦争でフランコ軍を支援することが行われただけであった。そしてこの間、ベルリン・オリンピックの開催などヒトラーとナチス政権の権威付けに力点を置いた。また、36年10月には四カ年計画に着手し、全面的な軍事優先の経済体制への移行を開始した。