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ドイツの国際連盟脱退

1933年10月、ヒトラーのナチス=ドイツが国際連盟と軍縮会議から脱退、ヴェルサイユ体制打破、再軍備を明確にした。

 ドイツ共和国は1926年に国際連盟に加盟を認められ、シュトレーゼマンらの共和国政府の下で国際協調を進めたが、世界恐慌の波及を機に急速にヒトラーと彼の率いるナチ党の勢力が増大し、1933年にヒトラー内閣が成立した。ヒトラー内閣は国会議事堂放火事件などを利用して共産党や社会民主党などの反対勢力の活動を停止し、全権委任法を成立させた。そのヒトラーが最初に行った強硬な外交政策が国際連盟脱退であった。
 軍備縮小の実現は国際連盟結成以来の国際社会の懸案であったが、1920年代のワシントン会議以来、軍縮は国際連盟に加盟していないアメリカ合衆国主導で大国だけが招集されて進められていた。しかし、世界恐慌後、ドイツと日本が軍備拡張を進めるようになり、国際連盟の場でより普遍的で実効的な軍備縮小会議の開催が模索されていた。それが1932年から始まったジュネーヴ軍縮会議(一般軍備制限会議)であり、そこにはアメリカ、ソ連も招集され、ドイツを含む64カ国が参加し、協議が継続されていた。そのさなかの1933年10月14日、ナチス=ドイツは国際連盟とジュネーヴ軍縮会議からの脱退を表明したのだった。

軍備平等権の主張

 ヒトラーはかねてからヴェルサイユ体制によって、領土を削減され、植民地の放棄、軍備の制限、過重な賠償金を押しつけられたとして、その打破を国民に訴えていた。特に軍備の制限については、その前提としてヴェルサイユ条約(その一部である国際連盟規約第8条)で各国が軍備縮小が規定されているとジュネーヴ軍縮会議に参加したヒトラー=ドイツは主張した。この主張は、ドイツ政府がロカルノ条約の交渉以来主張していた軍備平等権の根拠であり、1933年に成立したヒトラー内閣もその主張を継承した。そして、それが容れられないことを口実に、1933年10月14日、ヒトラー内閣は国際連盟とジュネーヴ軍縮会議から脱退することを通告する。
 ヒトラーの主張は軍備平等権と軍備縮小ということを装っていたが、そのねらいはドイツの軍備拡張にあった。実際、国内では着々と軍備増強に努めており、このままジュネーヴ軍縮会議を続ければ、その実態が露呈することを恐れたのである。そこでヒトラーは、先手を打ち、国際連盟が軍縮に努めていないという理由を作り出して脱退の口実にしたのだった。ドイツが脱退したことにより、ジュネーヴ軍縮会議も成果なく、1934年に閉会した。

国民投票の実施

 こうしてドイツは、苦労して国際連盟に参加し、国際社会に復帰したにもかかわらず、わずか7年間で脱退することになった。ヒトラーはこれを重大な外交政策の転換と捉え、国民投票に付することとした。11月に実施された国民投票は、脱退賛成票が95%に達し、承認された。
(引用)ルールのある炭鉱町の鉱夫の回想によれば「子どもたちは、学校でドイツの地図が印された絵はがきに色をぬらされた。その地図の上には、ドイツの戦闘機が、フランス、イギリス、ソ連の国旗にとりかこまれるように印刷されていて、「君は、賛成票でこれを阻止せよ」と書かれてあった。投票日の前日にパレードをおこない、絵はがきを通行人にくばった」とある。<山本秀行『ナチスの時代』世界史リブレット49 1997 山川出版社>
 同年3月、国際連盟総会で日本軍の満州撤退決議が可決されたのを受け、日本は国際連盟を脱退していた。もとよりこれは天皇の詔書として出されたものであり、日本では国民投票はおこなわれていない。同じ年に国際連盟を脱退した両国は、接近を重ね、1936年、日独防共協定を結成することとなる。
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