ヘミングウェー
アメリカの1920年代を代表する作家。『日はまた昇る』など作品多数。スペイン戦争に参加し『誰がために鐘は鳴る』を発表した。1954年、ノーベル文学賞受賞。
Ernest Hemingway(1899-1961) アメリカ文学の1920代作家というのは、ヘミングウェーやフォークナー、スコット=フィッツジェラルドなどで、第一次世界大戦後にデビューしたいわゆる「ロスト・ジェネレーション」と言われる人びとを指す。ヘミングウェーはその代表的な作家で、1926年に戦後の若者の彷徨を描いた『日はまた昇る』で流行作家となった。その後、第一次世界大戦を題材とした1929年『武器よさらば』などがベストセラーとなった。スペイン戦争ではみずから国際義勇軍に加わって従軍し、1940年『誰がために鐘は鳴る』を発表した。第二次世界大戦後は簡潔な文章で人間の尊厳を描いた1952年『老人と海』がある。1954年にノーベル文学賞を受賞。
ヘミングウェーとキューバ
現在、キューバの首都ハバナには、ヘミングウェー博物館があり、観光名所となっている。ヘミングウェーは1939年から20年あまり、ハバナで暮らし、郊外の高台のヤシやマンゴーの木に囲まれた邸宅「フィンカ・ビヒア」に住んでいた。『老人と海』を書いた家でもある。博物館となっているのがこの邸宅で、それ以外にもハバナにはヘミングウェーが通ったというレストランやバーが残され、観光客はそこも訪ねる。ヘミングウェーは1960年にハバナを去り、アメリカに戻る。フィデル=カストロが親米政権を打倒しキューバ革命を達成した翌年だった。なぜキューバを離れたのか。アメリカ中央情報局(CIA)の元幹部は「社会主義政権に資産を国有化されることを恐れたのだ」と話す。しかしハバナのヘミングウェー博物館の館長、アダ・ローサさんは「彼はキューバ革命に好感を持っていた。出版前の草稿も残したままだった。ここに戻ってくる積もりだったことは間違いない」と反論する。躁鬱に苦しんでいた文豪は翌年、自ら命を絶つ。<『朝日新聞』2015/4/18 アメリカ総局長山脇岳志氏の文から要約>Episode 文豪のもう一つの顔
文豪ヘミングウェーには「別な顔」があった。第二次世界大戦中、アメリカのためスパイ活動をしていたのである。駐キューバ米国大使と協力して「クルック・ファクトリー(ならず者工場)」という名のスパイ団を組織し、ナチス=ドイツのスパイを探した。かと思えば、愛艇「ピラール号」にバズーカ砲や手投げ弾を積み込んで、漁と見せかけてナチスの潜水艦が近づけば攻撃しようとした。さらに近年になって、ソ連の情報機関NKVD(KBDの前身)にも協力していたことが、元KGB幹部の暴露でわかった。文豪のコードネーム(暗号名)はアルゴだった。ヘミングウェーを研究する歴史学者ニコラス・レイノルズ氏は、「ソ連への共感はあったとしても、イデオロギーに賛成したわけではない。反ファシズムのための協力だったと思う」と語っている。ソ連のスパイとしての成果は、ゼロだったという。<同上『朝日新聞』記事から要約>