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チェコスロヴァキア解体

1938年、ナチス=ドイツはズデーテンを割譲させ、翌年3月、残りのチェコスロヴァキアを分割、ベーメン地方を保護領、スロヴァキアを独立国とした。ナチス=ドイツに対する抵抗はチェコとスロヴァキアで続き、1945年4~5月、解放を勝ち取り、チェコスロヴァキア共和国として復活した。

 ヒトラーのナチス=ドイツは1938年9月ミュンヘン会議で締結されたミュンヘン協定により、チェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合を認められた。東半分のスロヴァキア人居住地では、チェコとの経済格差解消を求めていた人民党などの諸政党が自治を宣言し、11月にチェコスロヴァキア共和国の「第二共和国」に移行させた。

チェコスロヴァキアの三分割

 ナチス=ドイツはズデーテン地方以外のチェコスロヴァキア本土に迫り、1939年3月、その西半分のベーメン(ボヘミア)モラヴィア(メーレン)をドイツの保護領とした。一方、東半分のスロヴァキアでは、ドイツの力を利用してチェコスロヴァキアからの完全分離独立を実現しようとして、同3月に州議会が「スロヴァキア共和国」独立を宣言した。ドイツもその独立を認めたが、独立は名ばかりで実質的にはドイツに従属した。こうしてチェコスロヴァキアは、ズデーテン地方は併合され、その他のチェコ地方は保護国となり、スロヴァキアは形の上の独立国というように三つに解体されたが、実質的にはドイツの支配を受けることとなった。

亡命政府の対ドイツ闘争

 1940年、ベネシュを大統領とする亡命政府が結成され、ベネシュは連合国の承認を取り付けた。同時に戦後はソ連との関係が重要になると判断して、1943年12月に訪ソし、ソ連=チェコスロヴァキア友好協力相互援助条約を締結した。占領下のチェコスロヴァキアでも共産党系と亡命政府系が協力して対ドイツ抵抗闘争を戦い、44年8~10月にはスロヴァキア国民蜂起が起こり、プラハでもゲリラ戦が続いた。

スロヴァキアの反ナチ闘争

 スロヴァキア共和国はドイツの強い影響下に置かれたが、それでも歴史上初めて単独の独立国となったことで政治的、経済的にも実質的自立を図る動きも出てきた。それは次第に反ナチス=ドイツに向かい、1944年からは大規模なスロヴァキア国民蜂起が起こっている。スロヴァキアのナチス=ドイツに対する抵抗運動はチェコよりも激しく、大きな被害を出しつつも果敢なゲリラ戦を展開した末、1945年4月にソ連軍の支援を得て首都ブラチスラヴァが解放された。

チェコスロヴァキアの復活

 1945年4月のスロヴァキアの解放に続いて、5月にはチェコも解放され、チェコスロヴァキア共和国は、一部の領土をソ連に割譲した以外は、ほぼ1938年以前の「第一共和国」の形で復活した。しかし、この間、国家が分断されレたことは、戦後のチェコスロヴァキアに深い溝を残すことになった。
(引用)この第二次世界大戦中の経験は、その後のチェコスロヴァキアに大きな影を投げかけた。スロヴァキアにおいては、ファシズムに対して果敢に抵抗したという記憶が民族の誇りとして長く保たれる一方、わずか6年間とは言え独立国を形成した経験が心理的に及ぼした影響も大きかった。その結果、チェコ人とスロヴァキア人を一つの国民とみなすという戦前の方針は、復活した共和国においてはすでに維持できなくなっていたのである。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.233>
 → 第二次世界大戦後のチェコスロヴァキア
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薩摩秀登
『物語チェコの歴史』
2006 中公文庫