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宥和政策

イギリスのネヴィル=チェンバレン首相が、1938年のミュンヘン会談でとった、ナチス=ドイツの勢力拡大を一定程度認めて平和を維持しようとした外交基本姿勢。

 宥和政策(Appeasement Policy)は、外交上の譲歩によって戦争を極力避けて平和を維持しようという面では評価されてもよいことであるが、イギリスの宥和政策はナチス=ドイツの領土拡張要求を、小国の犠牲において認め、それと妥協することによって自国の安全を図ったもの、という否定的な評価が一般的である。なお、宥和政策の宥和を融和と書いてはいけない。宥和は「なだめる」という意味だが、融和は「とけあう」ことなので、融和政策と書いてしまうとヒトラーと一体化するということになってしまいます。
 世界史上の宥和政策はイギリスのチェンバレンのナチス=ドイツに対するものを言う。特に1938年9月ミュンヘン会談で、当事者であるチェコスロヴァキアの不参加の下でズデーテン割譲を認めたことは、ヒトラーの野心を見抜けなかったこととあわせてチェンバレンの失策と言わざるを得ない。しかし、そう言えるのは「後知恵」であり、当時はチェンバレンは戦争の危機からヨーロッパを救ったヒーローとみられており、ミュンヘン会談から帰国したチェンバレンは平和を実現したとしてロンドンで大歓迎を受けたことを忘れてはならない。それでは、彼はなぜ、「宥和」を前面に押し出したのだろうか。

宥和政策の始まり

 1935年に成立したボールドウィン(保守党党首)内閣から、イギリスはヨーロッパにおけるナチス=ドイツの反ヴェルサイユ体制の動きや、アジアにおける日本の中国侵略などに対して、積極的に非難せず、むしろそれを黙認するという姿勢をとった。当時イギリスにとって脅威はソ連=コミンテルンと考えられていたので、ドイツや日本はソ連を抑えるためには利用できると判断していた。
 このような外交政策としての宥和政策が、明確になるのは、ヒトラーのナチス=ドイツがヴェルサイユ条約に違約して再軍備に踏み切ったことに対し、ストレーザ戦線で抗議しながら、一方で単独でドイツと交渉して英独海軍協定を締結し、ドイツの一定の軍備拡張を認めることによって、それ以上の要求は抑えられると判断したことに始まる。

Episode 大英帝国の「日の名残り」

 第一次世界大戦後のイギリスで、ヴェルサイユ条約がドイツに対して過酷すぎると考え、ドイツの戦後復興を助けて軍備も対等なものなら認めてもよいと考える知識人がかなりいた。カズオ=イシグロの小説『日の名残り』は、そう考えるイギリス貴族ダーリントン卿という人物に仕える執事の目を通して、見事に描いている。執事というイギリス特有の職業に誇りを持っている主人公と、同僚の女中頭の微妙な関係を軸に、ダーリントン卿の私邸で繰り広げられた、30年代のイギリス、フランス、アメリカとドイツの駆け引きが展開される。正義感と善意からドイツに肩入れしたダーリントン卿は、ドイツの再軍備は平等の観点から認めていいと思えたし、チェコスロヴァキアなどの「見知らぬ国」のためにイギリスの青年を戦場に送ることはできない、と考える。いつしかナチスの思想をも受け入れ、ユダヤ人のメイドを解雇する。主人の命令に従おうとしかしない執事に対し、女中頭は抗議するが・・・・。結果的にダーリントン卿は戦後、ナチス協力者としてその名誉を奪われる。けして政治ドラマでは無く、淡々と執事と女中頭の二人を姿を追うだけの内容だが、ぜひ一読を勧める。なお、1993年にA=ホプキンスとE=トンプソンが主演で映画化されており、そちらもイギリスの30年代をよく再現していて一見の価値がある。

チェンバレンの宥和政策

 それがより鮮明になったのはネヴィル=チェンバレン(保守党)内閣からであった。その宥和政策が典型的に現れたのが、1938年9月のミュンヘン会議であった。
 すでに前年の11月、ヒトラーは「生存圏」の拡張のためオーストリアとチェコスロヴァキアへの侵略を決意しており、その直後、チェンバレンは特使としてハリファックス卿をドイツに非公式に派遣しヒトラーと会見させた時、ナチス=ドイツが共産主義の西進を阻止していると賞賛し、ドイツのダンツィヒ、オーストリア、チェコスロバキアの併合を「平和的方法で行われるかぎり」支持すると表明している。<斎藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波全書 p.248>
 ミュンヘン会談で、ナチス=ドイツのチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を認めるというチェンバレンの策にフランスが追従し、チェコスロヴァキアの犠牲においてヨーロッパの平和を実現させた形となった。締結されたミュンヘン協定でのイギリスの見返りはなんだったか。それはドイツから今後の外交行動で必ずイギリスと話し合うという約束を取りつけたことであった。チェンバレンはこの約束を取りつけたことが、最大の成果だと自負した。

宥和政策の破綻

 ドイツ国内でも多くがズデーテン割譲要求は拒否されると予想していたが、予想外の展開にヒトラーの強気な外交姿勢が効を奏したものとして「ヒトラー神話」はますます確固としたものになった。ヴェルサイユ条約に代わってミュンヘン協定に縛られることになったのはヒトラーにとっては譲歩であった。しかし、ヒトラーには協定を遵守する意図はなかった。翌1939年3月、チェコスロヴァキア解体に乗りだし、さらにポーランドへの領土的野心を露わにした。イギリス・フランスの宥和政策はナチス=ドイツを増長させる結果となった。
 ソ連のスターリンはミュンヘン会議でイギリスがナチス=ドイツを容認したことに対して不信感を募らせ、反発した。その結果、ヒトラーとスターリンは接近し、1939年8月、独ソ不可侵条約が成立し、秘密協定でポーランド分割を約束、9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻から第二次世界大戦が始まることとなる。

参考 「『宥和政策』への反省」への反省

 イギリスのチャーチルはチェンバレンの宥和政策を厳しく非難し、ヒトラーとの対決を主張した。いよいよヒトラーとの戦争が始まると、チェンバレンの宥和政策が結果としてヒトラーを「増長」させ、戦争を防げなかったという「反省」が一般にもひろく言われるようになった。第二次世界大戦後も、特に西側の指導者には、「宥和政策」の失敗が戦争をもたらしたという強いトラウマが残ったようだ。米ソの戦力が均衡していた冷戦時代には両国が直接衝突することはなかったが、たとえば朝鮮戦争では、北朝鮮軍の国境侵犯に対して、アメリカがすぐに動いた理由には、ヒトラーのチェコスロヴァキア分割や日本の満州進出に対して「宥和政策」を採ってすぐに対決しなかったことが、ドイツ・日本の暴走を許してしまったという反省にたっての行動だったと言われている。
 冷戦時代が終わってさらに「宥和政策」否定の風潮は強まり、アメリカのブッシュ大統領の湾岸戦争におけるフセインに対する行動は、まさにそのような論理によるものであった。「宥和政策」否定はさらに進めば、「自衛のための先制攻撃容認論」となりかねない危険性をはらんでいる。「宥和政策」を反省して先に相手を叩く、ということへも反省が必要だ。
チェンバレン宥和政策の誤り 「チェンバレンの宥和政策」が誤りである理由は次の2点に集約される。
  1. 当事者であるチェコスロヴァキアを無視したこと。
  2. ヒトラーのナチス=ドイツを容認することでスターリンのソ連を牽制しようとしたこと。
 カズオ・イシグロの『日の名残り』に描かれているように、イギリス国内には、ヴェルサイユ体制のもとで不当に権利を奪われているドイツに対して同情し、ヒトラーの言うことも聞いてやらなければならないという声もあった。しかし、チェンバレンの宥和はそのような同情心から生まれたのではなかった。チェコスロヴァキアを犠牲にしても、ヒトラーを容認しておけば、ソ連の脅威(共産化の脅威)から自国を守ることができると考えていた。しかし、ミュンヘン協定が成立したことを受けてスターリンはヒトラーと接近、独ソ不可侵条約という最悪の事態がもたらされ、ヒトラーとスターリンは戦争に踏み切る。
 この経緯から言っても「チェンバレンの宥和政策」は肯定されるべきではない。侵略行為をあからさまにする国に対しては、断固とした国際的連携によって孤立化させ、戦争という手段ではなく(時間がかかり、廻り道になったとしても)解決の途を探るべきであった。この反省の中から、国際連合が生み出されたのだ。
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書籍案内

斉藤孝
『戦間期国際政治史』
2015 岩波現代文庫
初版1978 岩波全書

カズオ・イシグロ
/土屋政雄訳
1989 ハヤカワepi文庫
Amazon Video 案内

A=ホプキンス・E=トンプソン主演
1994 J.アイヴォリー監督