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バルト三国併合(ソ連)

1940年6月、バルト三国に対しソ連がドイツとの秘密協定に基づいて侵攻、8月にリトアニア、ラトヴィア、エストニアを相次いでソ連邦に加盟させた(実際的な併合)。独ソ戦でドイツ軍に占領されたが、戦後に支配を回復したソ連はバルト三国のロシア化を進めた。

 バルト三国といわれるエストニアラトヴィアリトアニアは18世紀以来ロシア領となっていたが、ロシア革命に際して1918~20年にかけてそれぞれ独立した。ところがドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まると、ソ連は1940年6月、バルト三国に侵攻し、占領を完了、1940年8月3~6日に三国をソ連邦に加盟させた(3日にリトアニア、5日にラトヴィア、6日にエストニア)。三国はソ連邦を構成する共和国となったが、実質はソ連政府の統治下にはいったので、独立国家としての主権を失い、実際的にはソ連による併合を意味していた。
 この一連のソ連の行為は、1939年8月23日に成立した、スターリンとドイツのヒトラーとの間の独ソ不可侵条約に付帯する秘密議定書に基づくものであった。バルト三国にはそれぞれ共産党が作られ、ソ連邦を構成する共和国として、ソ連政府の直接的な支配を受けることになった。

バルト三国のロシア化

 ところが翌1941年6月になると、ドイツは独ソ不可侵条約を破ってドイツ軍をソ連領に一斉に侵攻させ、独ソ戦が開始された。ソ連邦の一部であるバルト三国は、ドイツ軍に侵攻され、1944年までその占領が続いた。その後、ソ連軍が反撃して再占領すると、ソ連の統治再開に対する抵抗もあったが、第二次世界大戦後のソ連政府は1947年~52年に農村集団化を強行、多数のロシア人を移住させ、ロシア語の使用を強要するなど、ロシア化をはかった。このような中で戦後のソ連では「民族問題は終結した」と公式見解では述べていたが、バルト三国のそれぞれの民族意識は継承され、1980年代末のペレストロイカ期に一気に爆発することとなる。 → バルト三国の独立
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